やりたくないことはやらない



という今後の人生を生きていこうと決めました。いえ、今日決めたことではないんです。

この決意をしたのは、もう半年も前
そう、前職を辞めた時にこの、
やりたくないことはやらない、という決意をしました。

ただ正確には、
やりたくないことはやらない、ではなく……


やることはやる、やりたくないことはやらない


です。

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せみあど1

やることはやる、やりたくないことはやらない


この、やること、とは何かというと、これは私が自分自身の努力で実行、継続していくことができる事柄を指します。

例えば、このブログがそうです。

やりたいことのためにはやりたくないこともしなければならない、という言葉をよく耳にしますが、私の場合は、やりたいことではなく、やりたくないことが先に来ているんですよね。
やりたいこと云々よりもやりたくないこと云々の方が優先順位が高い。
だから、やりたくないことをやらないために、自分がやれると思ったことは精一杯努力してやっていくわけです。


果たしてそれで、
やりたくないことをやらない人生が送れるかどうかは解りません。


というか常識的に考えれば、
まず無理でしょう(笑)




でも挑戦してみるんです。


そう、自分の人生を賭けて。



やりたいことは、なにもない


やりたいこと、って私、なにもないんですよ。


もちろん、働かないことがやりたいことなんですが(笑)それは一般的に見てやりたいことに分類されるものではないので。



やりたいこと、って人によって色々あるじゃないですか。Aさんは色んな景色を見て色んなものを食べることが好きだから、旅行がしたい。Bさんはゴルフが好きだから、ゴルフクラブに通いたい。みたいに。
その、人によって、の、の部分は、その人の人間性を指すんです。でも私の場合、その人間性というものが欠如していて……自分が無い状態なんですよね。

例えばウォーキングを兼ねて散歩とかしてるじゃないですか、私。で、散歩していると、色んな景色が目に飛び込んでくるんですよね。その中には一般的に美しいと言われる景色もたくさんあるわけですよ。でも私はそれを美しいと思えない。景色を見ても、何も感じないんです。これは近所の景色に限ったことではなく、旅行先の景勝地でも同じ事。仮にナイアガラの滝オーストラリアのエアーズロックを見たとしても私の心は1ミリも動かないでしょう。もしかしたら宇宙旅行に出掛けて、宇宙船から青い地球を見ても全く感動しないかもしれません(というかしないと思います。しない自信(笑)があります)。



もうね、精神はとうの昔に壊れています。


取り返しの付かないレベルでぼろぼろです。
どうやったら治るのかさっぱり検討がつかないし、むしろどう考えても治らないと思います。


もし10年前働くのを辞めていたら(22歳ですから働き始めて2年の時ですね(笑))まだどうにかなったかもしれませんが……その10年後の今となってはもう、99%生きているうちに自分が本来持っていた自分らしい性格や感情が戻ってくることはないと思っています。



とにかく自分の存在のすべてを労働の苦しみと闘うことだけに11年以上費やしてきたわけで。その結果、対労働以外の部分が自分の中から無くなってしまっているんですよね。
もちろんそうなるのは最初の最初から解りきっていたんですが、働かないと生きていけない以上、他に選択肢がなかったのです。

働くだけで感情を失うとか、そんなの普通はあり得ないから! ……と思われるかもしれません。しかし、私はどう考えても普通じゃないんですよね。


といいつつも私、今現在レンタルビデオ店でDVDを借りてきて観たりとか、スマホやPCでネットサーフィンをしたりとかはしてるんですよ。これって見る人によっては、やりたいことやって楽しんでいるんじゃないの? と思われそうですが……いいや、それは違う。それは違うんです。それらの行為は私の人間性が望んでいることではなく、単なる時間つぶしであり、単なる息抜きなのです。

私が、私として、それを楽しめていないという事実が問題なのです。

楽しむことができない、感情がない、と言いますが、これは完全に0である、ということではありません。そもそも完全に0だったら植物状態でしょう。そうでなくとも、過去100であったものが、現在1にも満たない数値である場合(自分自身がそうだと認識する場合)、それが無くなった……と言いませんか?



想像してみて下さい。

大きな酒樽の中を覗き込んだ時に、
1、2滴
そう……たった1、2滴酒の水滴樽の底に付いていたとします。








あなたはこの酒樽の中に酒が入っていると言いますか? 






それとも入っていないと言いますか?


やりたくないこと、ってなに?


私にとってこれはもうたった1つだけです。


働くこと。です。


もっと厳密に言えば、
『理不尽に耐えながら仕事を続けること』です。

仕事の何が嫌なのかというと、理不尽に耐えていかなければならないことが嫌なんです。他にも色々嫌な要素はありますが、最大の理由はこれです。
お客様や上司など、立場上逆らえない人間に対して、「いやそれは違うと思います。私はこう思います」って言えないじゃないですか。
また私自身がゴミスペックな人間なので、普通の人よりそういった理不尽にぶち当たる確率が非常に高いんですよね。というより普通なら理不尽だと思わないようなことですら、理不尽だと受け止めてしまいがちなのです。





もちろん私のような人間は、少数派で、ほとんどの方々はそうではないでしょう。ほとんどの方が以下のいずれかに該当すると思います。

・理不尽を感じない場合(すごく前向きな性格だったり、世渡り上手だったり、要領が良かったり、特別仕事が出来たり、会社での立場が強かったり、運良く周りがいい人ばっかりだったり、そもそもそういったストレス自体をあまり感じない性質だったりする、など)。

・理不尽は感じるが、それ以外の利点(仕事上でのやりがいや、自分自身の成長、家族を養っていく幸せ・義務、など)を仕事に見出せる場合。

・理不尽の苦しさはあるが、精神が崩壊するような苦しさではなく、酒を飲んで遊べば紛らわせる程度の苦しさだったり、前向きに考え方を変えれば何とかなったり、思い詰めないで気楽に行こうという気の持ちようで何とかなったりと、どうにかして対処可能な場合。



大抵の方はそんな感じだと思います(むしろそんな感じじゃないと、いずれ私のようにどうにもならない状況になると思います)。


でも私はそういう人間ではない。
これまで自分の欠点を克服し、そういった普通の、平均的な人間11年かけて目指したけど、やっぱりどうしてもそうはなれなかった

そんな私にとっての労働の利点なんて、
『食う』以外にないです。



自分の仕事が人の役に立って嬉しいと思えたことはないの?


ないです。


正直に言いますが、一度もないです。



私、接客業をしていた時もあるので、お客さんからありがとう、と感謝の気持ちを伝えられたこともあるんですよね。でもそれを受けて嬉しかったか、とかやりがいを感じたか、と言われたら全く感じなかったんです。


なぜ? と思いますよね。

これはですね、私が元々そういった感情を持っていなかったというのではありません。人に感謝されたり役に立てば嬉しい、という感情はもちろん持っていました。昔は。

ただ働き始めてからは、仕事が生み出す苦痛と絶望があまりにも大きすぎて、そういう喜びを感じる心の余裕を微塵も持てなかったのです。その喜びに回す余力が、一欠片もなかったのです。もう目の前の苦痛に対処するだけで、自分の全容量全時間に渡って費やされてしまっていました。



この辺り、普通の方から見れば、
明らかに異常ですよね。

私もそういう自分を異常だと思います(というより、私は昔から自分のことを正常だと思えたことが一度もないです)。







職場、って聞くと
どういうイメージを思い浮かべますか?

気を引き締めなければならない場所
くらいに多くの人は認識してますよね。
















私が、職場、と聞いて思い浮かべるのは、
戦場です。









そこらへんのレストランとかコンビニとか。ああいう大半の人が普通にこなせるであろう職場ですら、私からしてみれば普通の人の感覚で言えば、戦場に放り込まれるような気分なんです。





ええとですね、普通の方が職場に抱くイメージ

こんな感じだったとすると……











同じ職場でも私には、







こんな感じに見えてます。

仕事は理不尽で当たり前


仕事に理不尽や苦しみは存在して当たり前。
みんなそれを我慢している
。というのも、その通りだと思います。

大半の労働者はやりたくないことをやって、
理不尽に耐え苦しみながら働いて生きていますよね。
それは確かにその通りだと思います。
しかし、それと、だからおまえも同じように苦しんで生きなければならない、というのはではないでしょうか。

みんな当たり前のように苦しんでいるから、おまえも当たり前のように苦しめ、と言われたら(今まで実際に散々言われ続けてきたけど)

私は嫌だ、と言いたいんです。

これからは、嫌だ、と言って生きたいんです。



違う、とは言えません。
だって社会の常識でそうなっているんだから。

でも違うとは言えないけど、嫌だと言いたい




嫌だと言って、生きていきたいんです。



それがどんなに非常識であろうが、
大人げなかろうが、別に構わない。



なので、
『理不尽に耐えながらもその仕事を続ける』


これはもう、
絶対にやりません


今後、私がなんらかの仕事に就くことはあるでしょう。しかし、そこで理不尽に耐えてまでその仕事を続けるということは、絶対にしない
これは明らかに相手の方がおかしい、これはどうしても我慢ならない、とそういったことに出くわした場合、一回だけはそれに真剣に向き合い、それに対処してみます。その問題の当事者がいるならその当事者と話し合う、また上司に掛け合う、など一度だけは正面からその問題に向き合ってみます。でもそれは一度だけです。その一度でどうにもならなければ(まず間違いなくどうにもならないでしょうが)、見切りを付けてそこを辞めます










え……? 








そんな非常識な考え方で、
生きていけると思ってるの?










生きていけないと思いますよ(笑)











でも、やるんです。












それでいくんです。




そしてもし、そうもし、その生き方を妥協する時がくるなら、 それはもう目の前に死が見え始めるレベルまで追いつめられてから、です。
つまり、他に収入もなく、貯金もなく、売り払えるような財産もなく、社会的な福祉を含め頼れる存在も一切ない、という状態まで追いつめられて、本当に耐えるか死ぬかの2択しかなくなった状態で、初めて妥協しようと思います。
長い目で見れば、今までも常にこの2択状態だったんですけど、そうではなく、目の前までそれが迫ったとき、私はこの決意を折ります。


逆に言えば、そのような状況になるまで、もう仕事の理不尽に耐えることは、今後の人生に於いて、しません














その代わり……


そう、その代わり、自分がやれること、努力次第で、やる気次第でできると思うことは、しっかりとやります。
『やりたくないことは、絶対にやらない』と決め、 それをやらないために、自分が決めた『やるべきことはちゃんとやる』んです。




それで生きていけなかったら、
もうその時は仕方ないでしょう。





やりたくないことと、できないこと


実はね、今回の記事の題名を
できないことはやらないにしようかとも思ったんですよ。

これまでの文章を見ると、あたかも私が2つの選択肢から1つを取ったかのように見えますが(社会に対して従順に生きるor自分本位に生きる)、実際には従順に生きる方の道は、イコール即人生終了の確率が非常に高くなっていたので、2つのうちの1つを選択をしたというよりも、もうこちらの選択を選ばざるを得なかったというのが正直なところです。従順に生きるなら、あのまま無理してでも仕事を続けていれば良かったんですが、あそこで辞めていなかったら、多少贔屓目に見ても50%くらいの確率で今こうしてここでPCを前にキーボードで文字を打っていることはなかったと思います。

私にとってやりたくないこと、である『理不尽に耐えながら仕事を続けること』は、私が自分自身の努力で実行継続していくことができない事柄です。つまり、私にとってそのような仕事は、やりたくないこと、ではなく、できないこと、なんですよね。これはどこで判断するかというと、それを実行・継続することによって自分自身の生命に危険が及ぶかどうか、で判断します。

ただできないことはやらない、としてしまうのは非常に危険なんです。なぜかというと、境界線が曖昧だからです。自分の生命が危険な状態に陥っているかどうかなんて、本当にギリギリにならないと判らないじゃないですか。だからまたずるずると限界ギリギリまで我慢してしまうんですよ。なのでそのスタイルでやってしまうと、結局今までと同じなんです。

ということで敢えて、
やりたくないことはやらないと、ここで線を引きました。



私が理不尽であるとはっきりと認識した段階で即座レッドカードを出す。もちろんこの時点ではまだそれは、できないこと、ではないんですよ。まだ耐える、ということができるんです。でもゆくゆくはできないこと(生命に危険を及ぼすこと)になっていく確率が高い。だからもうこの時点でレッドカードを出す(その仕事を辞める)んです。

辞めるのは、理不尽だと認識した段階やりたくないと認識した段階)で十分。なので、やりたくないという言葉を私はチョイスしました。







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