悪夢にうなされて目が覚める
といった経験はあるだろうか。
横に誰もいないのでうなされているかどうかは解らないが、悪夢の末に目が覚めるということはよくある。
私が見る悪夢の種類はいつもひとつ。
そう、労働の悪夢。社畜時代の悪夢だ。
働いていた時は毎日だったが、無職になってからは悪夢をみる確率はだいぶ落ちてきた。
それでもまだ時折、
あの頃の労働地獄が夢に出てくる。
今朝見た夢が現在の私の心理状態を如実に表していたので、起きてすぐに夢の内容を記録してしまった。
夢の中で私はどこかの企業に就職していた。
そこではチームで圧力鍋を売り出すプロジェクトが開始されることになっていた。
上司は50代くらいの男性。私の3つ前の職場で上司だった男だ。インディアンのような顔つきの男である。
インディアンがオフィスにいるチームのメンバー6人に発破をかける(私も6人のうちのひとり)。いかにこのプロジェクトが大事なものであるのか、と。絶対に成功させろ、と。
私は自分がチームメイトに迷惑をかけるかもしれないと、不安がいっぱいだ。
まもなく6人でプロジェクトが開始される。
途端に私は奈落の底に突き落とされた。
ほんの数秒の打ち合わせの後、他の5人が手早く自らの仕事に取りかかったが、
私は何も出来ない。
みんな、設計書を書き始めたり、営業の電話をしたり、営業先に足を運んだりと、忙しくしている。
だが、私は何をしたらいいのかが解らない。
他の人には指示があって、私には指示がなかった、とかそういうことではない。
みんな自発的に自分のやるべき仕事を考えて実行しているのだ。
私は何をすれば良いのか解らないので、自分の机に座り、取り敢えず企画書を必死に見る。
だが難解すぎて何を書いているのか、もっというと書いていることはなんとなくわかるのだが、それでどのような行動(仕事)をしたらいいのか解らない。
なので、その企画書の要点を自分のメモ帳に必死にまとめる作業に入った。
心理的圧迫がすごい。他のチームメイトはまともに仕事をこなしているのに、自分だけなんでこんなことをしているんだろう。
そのうちチームメイトの一人であり、またその職場の先輩でもある、私より少し年上の女性が近くにきた。彼女も大分前の職場にいた人物で、とてもキツい(融通の利かない)性格をしていた。
「おまえ何してるのそれ」
と彼女が私のメモ作業を見ていう。
私は何も答えられない。
「そうじゃなくて他に~とか~とかいくらでもすることあるだろ」
彼女は怒っている。私を馬鹿にしているというのではなく、私の無能が本気で理解できず、我慢ならないのだ。
「すみません」
と私は返すが、返事だけで、やっぱり何をしたら良いのか解らない。
他のメンバーは当たり前にやっていることだが、私にとっては幼稚園児がセンター試験に直面したような状態なのだ。
だがそのことを彼女は微塵も理解しない。
「すみません、じゃなくてさっさとやれよ」
彼女の男勝りな口調からは、怠け者に対する侮蔑の念さえ感じられる。
だが、ここからが、違った。
ここからが、辞職する前の夢と違った。
今までは、このまま怒られ蔑まれながら、それでも出来ようもない仕事に必死に取り組む、という形で夢が延々と続いていた。
だが、夢の中の私は立ち上がると、
彼女にこう言い返したのだ。
「私には仕事が難しすぎてできないんです。こうやって全てをメモにとって1から10まで何をやればいいか解るようなことじゃないと、私にはできないんです」
私は彼女の顔は見ていなかったが、私の言葉を聞いた彼女から、即座に怨念めいたものが感じられた。
さながら自分の常識の中に、あってはならない存在を目の前にしているかのような。それが頭を垂れる私にひしひしと伝わってきたのだ。
「バカかおまえ。そんな甘ったれたいいわけしてないで、とっととやれっつうんだよ!」
語尾を荒らげ彼女が怒鳴る。私は無理なんです、すみません、を繰り返す。
それからいくつかの罵詈雑言で彼女は私のことを、おまえは性根が腐っていると叩きのめした。
我慢の限界に来た私は、即座に荷物をまとめ始めた。机の上のメモや筆記用具を鞄にしまい、席を離れたのだ。
「おいおい、何してんだおまえ」
と彼女がキツい口調で私を窘める。私は張り裂けそうになる感情を抑えて、「もう、辞めます」と返す。
仕事を辞めて困らないはずがない。辞めたらどうしようもない。辞めるなんてありえないという心境のなか、震えながら私はそれを断行していた。
「クズだなおまえ。本当にクズだなおまえは」
と彼女が言う。
この言葉で私は初めて面と向かって言い返した。
「できない。できないものはできないんだよ」
私の抗弁に彼女の中の何かがキレた。
「おい、それが先輩に向かっていう言葉か?」
詰め寄る彼女を私は振り切り、部屋の出口へ向かおうとする。
他の社員が私を止めようとしたが、私はそれを振り切った。出口まで来たとき、後ろから
おまえがクズなのは、
やろうとしないからだろ!
という彼女の声が背中をたたいた。
私は振り返って
「できないものは、できない。きれい事をいうな」
と震える声で捨て台詞を残し、部屋を出て階段を降り始める。
無論、胸中には怨念が吹溜りのようにたまっている。罵倒された悔しさと社会に楯突いた不安で足がよろめく。
その時、先ほどの部屋で「おい、よせ、やめろ!」という声が聞こえた。
同時に他の女子社員の悲鳴が聞こえた。
現実なら解るはずもないのだが、夢特有のなにかで、私の脳内にその情景が飛び込んできた。
私を罵倒していた年上の先輩女性がナイフを握りしめ、部屋を飛び出し、叫びながら階段を駆け下り、後を追いかけてくるのだ。
私は会社の3階くらいにいたので、怖くなって一気に階段を駆け下りた。ほとんど絶叫しながら追いかけてくる相手から必死になって逃げた。
だが、1階に下りきったところで、彼女に追いつかれてしまう。
髪を逆立てた彼女は、ほとんど般若のような形相になっていた。私を発見するなり、ためらいもなくナイフを振りかざし襲いかかってきた。
ナイフが私の胸を貫いた瞬間、目が覚めた。
いつも起きる時間より、2時間ほど早い目覚めだった。これは、夢の内容に起こされた状態、つまり、悪夢で目覚めたと言っていいだろう。
この夢の何が悪夢なのかというと、それはこれが現実でも起こる、また私が抗弁するまでの状況であれば、既に起きたことだからだ。
今からでも単に就職するだけでこの悪夢はいとも簡単に正夢となる。
そして、この悪夢は大多数の他人から同情、理解をしてもらえない。
ひどい経験をして悪夢に苛まれているというと、周りはあんたは被害者だ、もう大丈夫、と言ってくれるが、私の悪夢の場合、話した瞬間にその相手が悪夢の続きを開始するのだ。
だが、ひとつ、腑に落ちないところがある。
なぜ夢の中の彼女は、私を追ってきたのか。
確かに彼女は、社会の常識の中で生きている人間であり、また融通が利かず、私のような存在を存在自体認めることができない性質であった。
だが、明らかに優位な立場にある彼女が、なぜ仕事を捨てて去った負け組の私をわざわざ追いかけて来たのか。
考えてみると、すぐに解った。
ナイフを持って追いかけてきたのは彼女自身ではなく、私の心の中に潜む、社会常識からは逃れられないという心だったのだ。
どうやってもそれからは逃れられない。
そう染みついた心理が、わがままを言って社会常識から逃げ出した私を、彼女の姿を借りて追いかけてきたのだ。
常識から逃れたものには死を。
それを実行するために。