鬱は甘えなのか?
それを、
今回は考えてみたいと思います。
まず私自身が、
鬱病で診断書をもらっている、鬱病患者です。
そしてそんな私の立場からすれば、
鬱は甘えではない、病気なんだ、
と訴えるのが自然なのかもしれません。
しかし今回はそれを感情的に訴えるのではなく、
出来るだけ理論的に考えていきたいと思います。
心情としてはね。鬱は甘えじゃない、と訴える多くの方と同じ気持ちです。でもそれだといつまでたっても、平行線な気がして……。
では、いきます。
Contents
鬱病は何故甘えと言われるのか?
まず、鬱病が甘えと言われる、
また言われやすい所以を考えてみます。
鬱病の症状
一般的な鬱病の症状は、気分が落ち込む、やる気が出ない、何に対しても興味を持てない、などの思考力、注意力の低下。また睡眠障害、過眠、食欲不振、過食、倦怠感、焦燥感などが挙げられます。
ストレス、もしくはそのストレスによって引き起こされる食事や生活リズムのバランス崩壊などによって、通常は脳が最初にストレスの被害を受け、それがじきに身体へと出てきますが、脳の被害に気付かない人は、身体の変調によって始めて鬱病を疑い始めます。
鬱病の原因
ストレスですよね。
置かれている環境や自身の体調の変化、またPTSDなどの過去にあった悲惨な経験など、何らかのストレスによって、鬱病は発症します。
過去、現在、将来のどこにもストレスがない人は、鬱病にならないでしょう(というより、そうではないケースに関しては、私が書くべき問題ではないので省きます)。
で、我々には、ストレスに強い人もいれば、ストレスに弱い人(例えば私のような人)もいて、100人いたら1番目から100番目までストレス耐性で順番がつけられます。
つまりみんな違うんですね。
人は皆、それぞれにストレス許容度というものが決まっているわけです。
そしてこの個々のストレス許容度を超えるストレスがかかってしまうと、心(脳)がまずそのストレスによって被害を受け、心(脳)が被害を受けた状態が続くと、身体にも被害が及んでしまう。
これらの被害を受けた状態が、鬱の状態です。
補足ですが、努力により己のストレス耐性を上げることは、無論可能です。しかし余程のことがない限り、100番目にいる人が1番目にいる人のストレス耐性を超えるなんてことはできません。10番追い抜くのでも至難の業でしょう。個人の努力によってストレス耐性を高めることには限界があります。
この鬱がもたらす影響の一つとして、セロトニンの減少、海馬の萎縮、脳細胞の死滅、など脳に対しての損傷が出ることがあります。
ですが、このような状態が医学的に認められたら鬱である、ということにはなっていません。
現代では、医師の診察(患者とのコミュニケーション)によって鬱診断がなされます。
鬱は基準が曖昧な病気である
はい。
ここまでに書いた症状と原因を見ていただくと解ると思うのですが、
曖昧なんですよね、基準が。
ここからが鬱病なんだよ、っていうはっきりとした境界線が引けないんです。
だから、
どこまでが甘えで、
どこからが鬱病なのかが、判らない。
ストレスによって心(脳)が許容量以上のダメージを負った状態が鬱病なんですけれども、人によってその許容量は違うし、心(脳)に負ったダメージ量も外からは見えないし分りづらい、診断を下すのも医師毎に恣意的な部分がかなり含まれている。
つまり、明確な基準がないんです。
(DSM-5という、大うつ性障害(鬱病のこと)の診断基準は存在しますが、これも医師と患者とのコミュニケーションによって確認されるものであります。コレの診断基準は私が上記した鬱の症状と大体同じです。詳しくは『DSM-5 うつ病』で検索してみて下さい。また、今回の記事を書くにあたって改めて私の主治医(精神科医)にも鬱病について直接確認してみましたが、鬱はその症状、原因ともに現在はまだ完全に解明されているわけではなく、医学的な照明をもって診断されるわけでもなく、おおまかな診断基準にいくつか患者の症状が当てはまると医師が判断した場合、診断される病気である、とのことです)
鬱になった人が、死ぬほど苦しい、また実際に死を考えている、といくら訴えても、実際にはどうなのか判らない。
そして何より鬱病の症状と言われるものには、健常者にも有り得る(と健常者側から思われる)ものが多いんですよね。
誰だって気は落ち込みます。誰だってやる気が出ないこともあります。何にも興味持てなくなったなぁって思うこともあります。疲れていて思考力、注意力が低下することもありますし、寝つきが悪くなることや食欲がなくなること、なんだか怠いことだってあるんです。時には死にたいなと思うことも、あります。
骨折、風邪で熱が出る、扁桃腺が腫れる、食あたりでお腹が下げる、みたいに、その病気にならないと現れない、っていう症状じゃないんです。
鬱の症状は。
だから、余計に、それって単に気分の問題(甘えているだけ)なんじゃないの? って思うわけですね。
これはある意味、至極当然なことです。
しかし。
程度が違うんですよ。
鬱病の人がこういった症状を訴えている場合のそれと、健常者のそれとでは、程度が全く異なる場合が多いのです。
私の鬱の症状を例として話しますね。
私は働いていた時から睡眠障害に悩まされていたわけですが、1日24時間の平均睡眠時間が3時間くらいというのが数年に渡って続いておりました。24時間全く眠らないでいる日もよくありました。いえ、ショートスリーパーではないです。ちゃんと8時間くらい眠る人間であった私が、ストレスによりこういった恒久的に眠れない状態に陥ったわけですよね。それも、仕事に追われていて寝る時間がなかった、というわけでもなく、ちゃんと時間的には8時間の睡眠時間は確保できていたのに、それでも眠ることができなかったのです。
こういうレベルの睡眠障害って、
健常者でありますか?
絶対ないですよね?
敢えてやろうとすればできるかもしれない。でも実際はなんのメリットもないので、そんなことやるはずがないんです。
またストレスで食欲が落ちたときも、ほとんどモノが食べれなくなり、一番酷かった時は3日間水以外なにも口に入れられなかったんですよね。普通、気分が落ち込んで食欲がない、といった場合でも、3日間水以外口にしない、っていうことはあり得ないです。
これも敢えてやろうと思えば出来るでしょうが、何のメリットもないからそんなことするわけがないんですよ。
ちなみに、私がこれらの症状に陥った段階では、私は精神科に通院もしていないし、そもそも鬱病や精神科自体、自分にはまったく縁のないものと思っていました。なので別に鬱病認定されることを狙ってやったわけでもないです。
なのに精神的なストレスによって、そこまでの状態に陥ってしまったのです。
このように、症状だけを見ると、健常者も気分次第であり得そうなものんですけど、その程度まで考えれば、健常者ではありえない現象が鬱病患者には起きているわけです。
逆に鬱病認定をされていない健常者の人で、寝る時間をきちんと確保しているにも関わらず、明日の仕事が苦痛で夜全然眠れなくて(それこそ毎日2、3時間眠れるかどうかっていうレベルで)それがもう半年以上続いている、っていう人は、鬱病だと思いますよ十分。
しかしですね、私の鬱の症状で最も重いものは、感情鈍麻なんですよ。
読んで字の如く、感情が極端に鈍くなるわけです(私の鬱の症状はこちらの文中に記載しています)。
確かに人間は、大人になれば誰でも子供の頃より感情が希薄化し、鈍化していきます。これは子供の頃はすべての体験が新鮮ですが、大人になるにつれ、それが繰り返され、ほとんどのことに慣れてしまうからです。人生に於ける体感時間の折り返しが20歳と言われるのもこれのせいですね。大人になるほど1年が早くなっていくわけです。
私も、もちろん、子供から大人になる上での感情・感受性の希薄化というものはありましたよ。でも、それは一般的には次第に、そして段階を踏んで徐々に進行していくものですよね。
私の場合は、それがある時期に集中して一気に来ました。まさにナイアガラの滝みたいな感じできたんです。もちろんその時期は、労働に携わり始めた時でした(正確に言えば、就職活動期から内定をもらった企業にインターンシップをし始めた時)。
この時に、
一気に、感情が鈍くなる
といったことが起きたんです。
原因は、
労働によるストレスです。
その時の(その時から今に至るまでの)私の頭がどういう状態かというと……
そうですね、解りやすく言うと、お酒に酔っ払った状態でかつ、一切の気持ちの良さがなく、なおかつ不安はある状態。こんな感じです。ずっとそんな状態なんですよね。20歳くらいから1秒たりとも欠かさずこの状態です。目覚めてから眠るまで。もちろん、就労時のテンションはずっと月曜日の朝です。休日前の夜であろうがなんだろうが、徹頭徹尾の月曜の朝固定です。最悪のテンションでずっと固定されていて、そこから全く上に上がることがないのです。
で、ですね。
なぜこれを先ほどの睡眠障害や摂食障害と一緒に例として挙げなかったかというと、それは健常者との差異を明確に表現しにくいから、なんです。
世の中、え、マジで? みたいなレベルで特にストレスで鬱になっているとかそういうわけでも全くないのに、通常の状態からして感情が薄いロボットのような人も結構いるじゃないですか。感受性に満ちた人を見つけるより感受性が欠けた人を見つける方が圧倒的に簡単な世の中です。
だから、そういった現状を鑑みるに、感情が希薄だから鬱、だとはなかなか言いにくいわけで……。
上で書いたように、脳の障害を調べたら……つまりMRIで調べたら私の海馬も萎縮しているかもしれません。お金に余裕ができたら、本当にやってみようかなとは思っていますよ。私の海馬がどうなってんのか。
これと同じように、鬱の症状で筆頭に挙げられるものに、
体がだるくて動けない、があります。
これも鬱に罹った人と健常者では程度がまったく違うわけですが、私の感情鈍麻と同じように実に伝えにくい症状なんです。
なぜなら、
健常者だってそうなるし、
そうなれるから。
休みの日はずっとベッドから出ないとか、GW中寝て過ごしたとか、そういう人はいくらでもいますし、仮に次の日仕事休めたら絶対一日中寝てるわ、って人もたくさんいます。それでも起きて頑張って仕事に行ってるんだ。そうしない奴との差はやる気があるかないかだけだろ、甘えるな! となる。それに彼らだって3億当たれば働かずに済むわけだから、文字通り一生寝て過ごすかもしれません。
この、寝て過ごす、のと、起き上がれない、の差が明確に提示できないんですよ。鬱病患者が言う本当に起き上がれない、の本当、が解らない。
足が折れているわけでも、身体が麻痺しているわけでもなし。
物理的には起き上れるはずなんですから。
だから例として挙げなかったんです。
ただ一つ言わせてもらうのであれば。
仮に仕事をせずニートして寝て過ごしていたら、将来がヤバくなることが、普通の思考回路の人なら解りますよね。それこそ、生きていけるかどうかっていうレベルでヤバくなるんです(私も切実に、今、ヤバくなってしまってます笑)。
だから……
しないんですよ、健常者の方は。
本当はサボりたいけど、サボって仕事辞めてずっと寝てたら将来がヤバくなるのは確実だから、自分を奮い立てて仕事行ってるわけです(私も今まではずっとそうでしたから)。
じゃあ、そんな激ヤバのリスクを犯してまで、それが解っていてなお家で寝ているってどういうことなのか。その激ヤバなリスクを犯してもそうせざるを得ないんじゃないの? ってことになるんですね(無論すべての人がそうではないでしょうけど)。
私も、働くのがなんとかギリギリ許容できるレベルの苦痛なら、間違いなく働いていますよ。やべ、死ぬかも、ってところまで来たから辞めたわけです。そうでなきゃ間違いなく働いてます。じゃないと将来ヤバくなるのが、解りきっているので。
話を最初に戻して、整理しますね。
結局、鬱病患者の中には、
1.医学的に証明できるような障害が出ている人
2.健常者から見て明らかに異常な状態にある人
3.このいずれでもない人
の3種類がいて。
3の、このいずれでもない人、
は健常者から見れば健常者とほとんど変わらないわけです。
で。
鬱病を診断する方法は、(患者とのコミュニケーションを経た)医師の独断。私も脳の検査等は一切されていません。
1と2になったら鬱病認定される、ってわけでもなく、3でもされます。
こちらに書いていますが、仮に私が今の主治医に出会わず、前の主治医や前の前の主治医や前の前の前の主治医に掛かり続けていた場合、鬱病認定されていないケースも多分に考えられます。ていうか認定されてないでしょう。あのまま通院を止めていて、死ぬか単なる引きこもりかのどっちかになってました。
鬱病の診断基準が曖昧ってことは、それはつまり鬱病の基準が曖昧ってことです。
更には、見た目にも解りづらい。症状の大半は健常者でも起こり得る(と、捉えられる)。
これじゃ、鬱病が甘えと言われても仕方ない側面もありますよね。
しかし、すべてが黒(甘え)なわけではないです。1、2が鬱病であることは確か。とすれば「鬱はすべて甘え」ではない。
なら、3は鬱は甘えなのか?
私にはどちらともいえない。
健常者から見れば健常に見える3だからといって、その全員を同一視はできないわけです。
仮に私に2に当てはまる睡眠障害や摂食障害がなかったとして。私はうつ病ではないのか? と言われたら私個人としてはNOです。
なぜなら明らかに仕事のストレスが加わる前とは違った状態にいるからです。
しかし、その分別を健常者に伝える術は、残念ながら見つかりません。
鬱病は造られた病気なの?
そもそも鬱病というものは
利権によって造られた病気である。
という説がありますよね。
私の考えを書きます。
人間というものは、
精神が不安定になる生き物です。
その不安定によって体調にも様々な変化が起きますし、また通常ならあり得ないような状態(行動)に至るケースもあります。
こういった人間の不安定になった心のうちの、極めて重度な部分に病名を付けようと試みたものが数多ある精神病です。
そしてそれを試みようと考えた経緯には、まず間違いなく利権も絡んでいるでしょう。
というのが私の考えです。
人の世の中ですから、
何かしら利権が絡んでいるのはまあ間違いないと思いますよ。
でもだからといって、鬱は利権によって造られた架空の病気……
ではないと考えます。
なぜなら、人間はストレスによって著しく体調に異常をきたすし、度が過ぎれば心も普通に壊れてしまうことは事実なんです。
となればこういった明らかに異常な状態に病名を付けることは、私は自然な行為だと思います。
日常生活に支障が出ているという点で、
一般的な病気やケガと同じですからね。
そして仮に利権絡みであったとしても。
鬱病(精神病)という病気が存在する(認知される)ようになったことで救われた人ってかなりいると思うんですよ。
私も鬱病と言うことで、健常者とは別に扱われているわけです。これが全くなかったとしたらもうそれなりの確率でDEADだったでしょうし。
遥か昔は精神病など存在しなかったという方がいますが、それは間違いで、単に病名が存在してなかっただけで、存在はずっとしていたんです。
人間の心というものは今も昔も、個人が許容できる以上の負荷がかかれば変調をきたすし、それでもなお負荷をかけ続ければ壊れる。
そういうものなんです。
人間の心(脳)は。
なので、昔は、そういった壊れかけている、もしくは壊れた心を、放置していた(または注視していなかった)だけなんですね。
私は精神病は文明の進化に伴い、人の心に深く触れられるようになってきた結果であると思います。
そういったストレスで脳にダメージを負ってしまった方を特別扱いして治療を行う、というのであればそれは肯定されるべき行為だと私は考えます。
予め障害を持った人が二次的に鬱病になりやすい
鬱は甘えか、を考えるに於いて看過できない一つの要因があります。
それは、鬱になる前に、
その人がどういう人だったか、ということです。
もっと言えば、
どんな性格をしていて、
どれくらいのスペックを持っていた人か、
ということ。
鬱になる人には、
次のAタイプとBタイプがいます。
まずAタイプ。
このタイプは、本当に普通の人です。
もしくは普通よりあらゆる面で優れていることもあります。
しかし、劣悪な環境に置かれることにより、こういった普通、もしくは普通より優れている人たちの脳もダメージを受けるんです。
ええ、当然っちゃ当然のことですよね。
このように、普通の人、優秀な人も、
場合によっては鬱になります。
次に、Bタイプ。
これは元々、人より基本的なスペックが劣っている、もしくは性格的に極端に普通から外れている人です。ちなみに私はどっちも当て嵌まってました^-^;
こういった人は、
普通の人が普通と認識する
普通の環境ですら
鬱になります。
だってその人たちにとってそれは、
普通でもなんでもないのだから。
このAとBをですね、ごっちゃ(同一視)にして考えるとBは全部甘えになりますよね。
え? この程度で? になっちゃう。
オレは克服したよ? になっちゃう。
から。
残業月150時間、半年間休みなし、上司からは罵倒される毎日。で、鬱になったら、そりゃあ鬱になるわー、って理解できますよね。
それが理解できるのは、
そこが自分と同じ世界だからです。
でも、Bの人たちは、違う世界(常識的な観点からすれば、劣っている世界)にいるわけです。
では私の話を例に取ってみますね。
ここにせっかく超絶低スペックの人間がいるわけですし(笑)
私が鬱になった原因は、まず私がスペック的にも性格的にも、一人の社会人として一人前に仕事をしていくにあたって非常に低い水準の人間であった、ということです。
でもこの段階ではまだ鬱にはなっていないんです。働いていないこの段階では。思考も鈍麻することなく、感情も溢れるくらいにありました。
しかし労働が開始される時期になると、この低スペックであるがゆえに、社会に於いて満足な仕事をこなしていくことができなかったため、結果過剰なストレスをため込み、脳がダメージを負ってしまったわけですね。
それは努力で克服できることなんじゃないの? と思われるかもしれませんが。。。
もちろん、努力で克服できる部分もあります。しかし、努力ですべての不足部分を補えるのか、と言われたら現実的に非常に難しい、
というかほぼ無理なレベルなんですよ。
そもそも。
スペックが低い、
というのは、どういうことなのか?
……というとですね。
高速道路を走ることが、
仕事をして、普通に社会を生きていくことだと仮定します。
乗っている乗り物の排気量が、スペックです。
私のスペックは、
せいぜい90ccバイクでしょう。
(自分の限界を自分で決めるな、とかいう気合いの話ではないです)
なので本来、高速道路を走れるようなスペックではないんです。125ccからですからね。高速は。
普通の人は、軽自動車から、乗用車あたり。優秀な人はスポーツカーに乗っています。
90ccバイクと乗用車では、同じ60kmの速度を出しても、乗り手と車体にかかる負担が全く違いますよね。だから普通の人からすればなんてことないことでも、私にしてみれば激しく消耗するわけです。
90ccバイクだと、アクセル全開にして全力で飛ばし続けて、やっと平常運転している軽自動車や乗用車となんとか並べるくらい。
いずれ力尽きますよ、
こんなの。
そう。
乗っている乗り物が、違うんです。
だからこれを、克服する、ということは並大抵のことではないんですね。ましてやどう間違っても万人に可能なこと、ではないです。
例えば何らかの抜け道を見つけて正道を走るより早く着く、とか。人の車に乗せてもらうとか。そういうある意味普通じゃない方法を取らなければ、こういった人が生きていくことは非常に困難なわけです。
私の場合、私の心の叫びやなんやらは全力で無視してアクセル全開でぶっ飛ばし続けていたので、エンジンが焼けて車が走らなくなったんですね。
この状態が、鬱です。
で、事故る前に、ぎりぎりのとこでブレーキをかけました。あのままアクセルを開け続けていたら、事故っていた確率は大。
私に甘えがあったとするならそれは、事故覚悟でアクセルをムリヤリ開け続けなかったことではなく、自分のスペックが90ccバイクであることが働く前から解りきっていたにも関わらず、安定(といわれるもの)を求めて正道を走ってしまったこと、でしょうね。生きるためには仕方ない、などという大義名分で……(またここに関してはいずれ)。
鬱病は理解されるべきか?
当事者以外には理解できません。
だから、
理解なんて求めても
理解はされません。
これは理解できない人を非難しているわけではなく、人間という生き物は、自分が経験したこと以外は理解できない生き物なんです。
鬱を理解できない人に、「おまえも鬱になればこの苦しみが理解できる」と言う方がいるじゃないですか。
それは、
その通りだと思います。
でも、逆に言えば、
ならなきゃ理解できないんですよ。
これがその通りであるからこそ、鬱になっていない状態で、鬱の苦しみなんて理解できるはずがないんです。
私も、
もちろんそう。
私の友人にですね、非常に劣悪な環境で生きてこられて、精神的にも非常に大きな傷を負ってしまわれ、その結果、人格がいくつも自分の中に生まれてしまった方がいます。
でも、私はそれを理解できないんです。
多重人格? え? それ、フィクションの世界の話じゃないの? って思ったのが正直な感想です。
でも感覚的、感情的には理解できないけれど、
それが在るってことはちゃんと意識しています。
なぜそう考えたか、
というと。
これには
2つ理由がありまして。
まず1つめが、私の人間の心、というものに対する考え方が、そうであるからです。
普通に生きていると普通じゃない精神状態の存在はあり得ない、と思ってしまいがちですが、人間の心(脳)というものは、普通に、
そう
普通に、壊れる
んです。
今の普通の状態が普通に在るように、壊そうと思ったら普通に壊れるんですよね。普通に曲がるし、欠けるし、無くなるんです。
そして2つめの理由が、私自身が心の壊れた経験を持っていたからだと思います。
自分の心がこういう風に壊れたから、もっと凄まじい衝撃があれば、もっと壊れるだろうな、ああいう壊れ方も十分有り得るだろうな、ということが想像できたんですね。
人間は自分自身がその状態にならないと、
その状態にいる精神を
理解することが出来ない生き物です。
だから、
理解できないのは、
当たり前。
でも、理解できずとも、
そういうものが在る、と意識することなら可能。
例えば、私と、先に話した私の友人とは、まったく世界が違います。同じように病んではいますが、その程度に余りにも歴然たる差があるため、別世界と言ってもいいほどに世界が違います。だから、私がその人に対して理解できることなんて、ただの一つもありません。
でも。
世界が違っている。
そして
その違った世界が、
在る
ということを
意識
はできる。
思考力と、想像力を使えば。
人間は自分の世界と違う世界に生きる人を
理解できません。
よって世の中の人は、
『自分の世界しか理解できない人』と、
『自分以外の世界も理解できる人』、
という風には別れていません。
自分以外の世界も理解できる人というのは、
いないからです。
みんな自分の経験した、
またはそれに近しい世界しか、理解できません。
でも。
『世界には自分の世界しか存在しない』
と思っている人と、
理解はできないけど
『違う世界が在ると意識』している人。
この2種類には別れています。
前者は、どんな人に対しても、
自分の世界からしか語れません。
解らない、ことを意識していない。
もっと正確にいえば、できない。
理解も出来ない、意識もしない、となれば、
それは存在しないんです。
鬱病などというものは、
世界に存在しない。
そうなると、自分の世界の中でそれに当てはまる妥当な言葉を探して、それを鬱病の上から名札として貼り付けます。
それが、
甘えです。
健常者に鬱を理解しろと言うのはダメ
だと私は考えます。
なぜならそれは、理解できないことを理解しろ、という行為と同じですから。
反対に自分が、理解できない価値観を押し付けられた時の気分を考えてみてください。きっと鬱で苦しんでいる人にはそう言った経験があるでしょう。その時すごく嫌な気分になったはずです。
本質的には、これと全く同じ行為です。
だって、
理解なんてできないんだから。
これは鬱がどうこうではなく、
人間がそういう生き物である、
ということです。
自分の世界と違う世界の人の気持ちなんて
理解できないんです。
じゃあ、
どう訴えればいいのか?
ここで先ほど述べた、
意識してもらうという行為
が出てきます。
理解はできないけれど、そういうものがあるんだな、と考えることは思考力、想像力を使えば可能なんです(可能かどうかは、人によります)。
そういう風にして、意識してもらえる人には、鬱の存在を意識してもらうことが大切だと私は考えます。
過剰なストレスによって、またスペックの低さに起因して、人間(の脳)はこういう状態に変化してしまうんだな、ということを頭で考えて、想像してもらうわけですね。
もちろん、これは簡単なことではないし、強要するのも良くありません。もっと鬱病のことを意識してよ、なんて強要したらほぼ間違いなく反感を買います。
鬱病患者「鬱の辛さはそんな程度のものじゃない! 何も知らないくせに!」
こんなやり取りは、
互いの溝を深めるだけです。
ならどうすればいいのか、
というと。
我々が特別扱いされるためではなく、彼ら健常者もまた万一鬱病になり我々側の人間になったときのために、意識してもらうようにするんです。
そうすれば、
お互いにメリットがある行為になる。
我々と彼らは、今は鬱病患者と健常者に分かれていますが、どちらも人間であることに変わりはないので、どちらの心(脳)も許容量以上のストレスを加えれば必ず壊れます。
普通に仕事をして普通に生きていくことに対しては全く以て問題がないという人でも、病気や事故、災害、また思わぬ第三者からもたらされる問題、親しい人間に起こる不幸、育児、介護、自身の老い、などでいつ許容量を超えるストレスを抱えることになるかは分からない。
だからそうなった場合(弱者側になった場合)に自分が否定されないように、今弱者である人たちを否定せず、意識してあげることが大切、と訴えかけるわけです。
鬱を気遣うことが、ひいては自分のメリットにもなり得る。こういった感じにしなければ、人の心はなかなか動きません。鬱になってしんどいんだからそれを解れ、そして特別扱いしろ、と押し付けるようなやり方では少なくとも当事者と直接関係のない他人の気持ちは動きません。
世の中には無条件に弱者を思い遣る素晴らしい心の持ち主もいます。でも大半の方は、そうじゃない。その大半の方に弱者への思い遣りを求めるためには、その方々にもメリットがあると示すのが一番だと私は考えます。
そしてそれは決して、弱者から強要されて発生するものではありません。
鬱は甘え、には反対
長々と書いてきましたが、
私は『鬱は甘え』に対しては、
断固反対の立場を取ります。
無論、現在鬱病を診断されている人、またはそう主張している人の全員が甘えではない、とは言い切れません。
明らかに本人の許容量を超えていない程度のストレスで鬱病と診断されている人、それで鬱病だと言っている人、また最初から詐病を狙って鬱を装っている人。
確かにいるでしょう。
でもだからといって、彼ら(個人的に甘えているだけだと決めつけた人物)を攻撃することは、本当に苦しんでいる人も攻撃してしまう可能性があるわけです。
だって判別がつかないのだから。
いや、俺には見分けがつくよ? という人もいるでしょう。
でも
私には見分けがつかない
んです。
グレーに見える彼、彼女が、
ホワイトなのかブラックなのか、
判断ができないんです。
そんな状態でそのままグレーを攻撃するということは、「そんなの甘えだろ!」という言葉の弾丸が、本当に鬱で苦しんでいる人に命中する可能性もあるわけです。
そうなると。
そのうちの何人かは、その言葉に追い詰められて命を落としてしまうかもしれない。
自分が吐き出した言葉が、その人が命を落とした大きな要因の一つになるかもしれない。
そんな恐ろしいことは、
私にはできません。
以下の記事も読んで頂けたら嬉しいです。
この殺伐とした世界で、
あなたに不幸な死が訪れないことを
私は望んでいます。
クロヤギの過去はこちらから