ニートの末路

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今や、日本の社会問題ともなっている、
ニートひきこもりの存在。


そんな彼らの末路……って、
どうなるんでしょう?








末路……。

いやはや、嫌な言葉ですね。



末路、っていうのは、最後
または最終局面、という意味です。


で、いつその末路が訪れるか
いうことなんですが……
ニートひきこもりの人にとって、この末路が訪れるのは、そう、自分を養ってくれている親が死んでしまったとき、です。





無論、親に家から追い出されたりとか、親自身が困窮してしまった時なども該当するわけですが、一般的には、この、親が死んだとき、つまり親がいなくなったときに、ニート・ひきこもりの多くが生活が立ち行かなくなるため、最終局面である末路を迎えるわけです。



今回はその、

ニート親が死んだらどうなるのか?

また、
ひきこもり親がいなくなったらどうなるのか?






という所謂ニート・ひきこもりの末路について、実際にニートであり、広義ではひきこもりでもあるこの私、くろやぎが考えてみたいと思います。




くろやぎ自身が紛れもなきニート


ニートひきこもりは、
親が死んだらどうなるか?

彼らの末路とは?

こういったことについて
記事を書いている人はネット上にままいますが。


そのほぼ全員が他人事です。
つまり、自分自身はニートでもひきこもりでもないケースが多い





こんなクズなやつらいるんだなー、
こいつらどうなるんだろうなー
っていう感じで。
もしくは単なる転職・就職アフィネタとして。
書いているだけなんですよね。

そしてここが重要なのですが、他人事ゆえに、そのほとんどの記事は、内容が薄っぺらい。この私が、奴隷型サラリーマンとして生きる悦びを記事に書いたときくらいの薄っぺらさです(そんな記事書きませんけどね)。だから一般論以外のことは書いていない





このままニートしてたら完全に詰むよ。少しでも早く就職しないと取り返しがつかなくなる。それは自分の気持ち次第で可能なことだ。他人のせいにしても何も始まらない。




ってね。
その程度のことしか書いてない。













しかし、私は違う。










私自身が当事者。つまりはニートですからね。
加えて、今後の就職も絶望的、ときている。



他人事なわけがない。





ちなみにニートとは、15歳~34歳までの若年無業者を指します。
ただし本記事では34歳までに限定せず、長期間無職状態が続き、無職からの脱却が困難になっている方すべて、という定義で語っていきます。
つまり、俗にいう高齢ニートである38歳無職も、更に上の45歳無職も含むわけですね。

そして、労働者ではないものの、定期的な収入十分な資産、または親の遺産などがあり、親の死後も生活に困らない人たちは、今回の対象から除外します





ニート、引きこもり、また働いても数年に一度僅かな期間、など、
ほとんど働かなかった(けなかった)ため、親の死後、経済的窮地に立たされるすべての人間、を今回の記事の対象者とします。

もちろん、現ニートの私も対象者です。
っていうか、私も広義では引きこもりなんです(笑)
内閣府が発表するひきこもりの定義に、

ふだんは家にいるが,自分の趣味に関する用事のときだけ外出する=準ひきこもり

とあります(詳細は下のリンクから)。







私のことですよね。





また、一口にニート・ひきこもりと言っても、
ニート引きこもりにも、色んなタイプの方がいます。


A.低スペックor障害者で、社会に打ちのめされた経験があり、精神的にももう働くのは限界。働きたくない。でも生きるためには働かなきゃいけない、って人。私と同じタイプ。

B.低スペックor障害者だが、出来ることなら働きたい。早く自立したい。一人前の社会人になりたい。でも身体が思うように動かないなどの理由で、働けない。という人。

C.並みのスペックはあり、普通に労働ができる能力はあるが、何かしらの理由があって働きたくない人(面倒くさい、好きなことをしたい、自由が欲しいなど)。

D.ニート・ひきこもりだが、将来に何の不安もなく、図太く図々しく超然として日々を生きている人。






実際はこのA,B,C,Dにはっきりと分別できるわけではなくA要素の強いCとか。B要素もあるAとか。色々入り乱れています。しかしこれを十把一絡げに語っては、ニート・ひきこもりの対策は打てません。なぜなら、対策はタイプによって変わってくるから、です。

本記事後半で、私が対策を講じるのは、主にAタイプの人たち。私と同じような人たちですね。







日本にニート・ひきこもりはどれくらいいるのか?


先に書いた、ほとんど働かなかった(けなかった)ため、親の死後、経済的に窮地に立たされるすべての人間。これが現在の日本で、何人いるのか? ここは非常に重要な部分です。もちろん、年齢は関係ありません。

若年無業者,フリーター,ひきこもり
引用:内閣府


2014年のデータなのですが、
15歳~39歳の無業者75万人程度。

ひきこもりは、2010年のデータで70万人






……わかりづらいな^-^;
ニート兼ひきこもり、っていう人が多いだろうし(私みたいに)。

15歳~65歳までで1年以上働いていない人の数が知りたい。

取り合えず、ニートで見ると、15歳~39歳の無業者75万人だから、40~65歳を加えると100万人くらいになるでしょうか。
で、これは政府公認の数字ですから、実際にはもっと多いはずです。

問題は、この人たちの親が死んだときに、この人たち(おまえもだろ)の生活を保障するだけの余裕が日本にあるか?
ってとこです。







親がいるあいだは生きていける


親自身が子供の面倒を見ることができないほど困窮している場合。また、親に強制的に家から放り出される場合。

この2つのケースを除き、親の存命中親の給料や年金で、最低限生きていくことくらいは、ひきこもりニートもできるわけです。
基本的に、現在は娯楽のほとんどがスマホやパソコンでのインターネットで済んでしまいますし、それこそネットゲームには無料で出来るものがいくつもあるし、MMORPGをはじめ、膨大な時間を費やすことも可能なので、ほとんど金を使わずに遊び続けることができます(課金をすると言っても、月数万程度までなら、親が捻出できなくもないでしょう)。

しかし、当然のごとく、親の死後は収入が途絶えるため、遊興費どころか、衣食住の費用すら賄えなくなります

特に、衣食住のうちの、がなくては生きてすらいけません







親の死後、ニートの辿る道は4つしかない


常識的に考えるのであれば、収入、資産、遺産のないニートたち(私とか)が親の死後、辿る道は、大きく分けて次の4つしかありません。無論、親以外の誰か(近親者や友人など)が支援者になってくれればその後もニート続行できますが、そのケースは極めて少ないと考えます。

よって、やはり次の4つのいずれかしかなくなってしまう。
その4つとは、

1.働く

2.福祉に頼る

3.ホームレス・アウトロー・受刑者になる

4.死ぬ

です。





それぞれの割合までは正確には解りませんが、1,2,3,4どの道に行く人も必ずいます。つまり、最悪のケースである、4の死に至る人もいるってことですね。というよりも、現時点でこういった未来に絶望し、死を選んだニート・ひきこもりも数多くいます。この現時点で未来に失望して死んだ人、というのは『社会的にどうしようもないクズな生き物』である自分を許せなかった、または受け入れられなかった人でしょう。私も少し思い詰めると、すぐここに行っちゃうので、とにかく思い詰めないようにしています。







では、1つずつ見ていきましょう。



1.働く


この方法が、最も堅実かつ、生涯通して平穏に生きていける確率が高い選択です。


日本社会の最適解が、これ。



労働です。



故に常識的に考えれば、最もオススメされる選択肢ではあるのですが、唯一穴があり、それはこの『働く』ということ自体が、非常に困難な場合、です。

私を含め、普通に働く、ということがとんでもなくナイトメアモードである方が一定数、存在します。そのことを誰が分かっているのかというと、本人がいちばん解っていると思います。むしろそれは、本人にしか解らないような問題です。





当然、そういった人たちでも生きるために働かざるを得なくなります。私も11年間、生きるためだけに働いてきました



世の中の労働には、悦びやりがい自身の成長、など色々とメリットもあるみたいですが……。私の場合、到底そんな次元まで、いかない。とにかく、最低限の仕事をこなし続けること自体がもう限界ギリギリなので、それを維持し続けるだけで、自分のすべてが飽和してしまう。



で、限界ギリギリでもまだそれが持続できているのなら、それはそれで選択としてアリかもしれないんですけど……

そのまま限界を突破して、を迎えてしまう場合……。そうなりかねないと自分で判断するところまで追い詰められてしまう場合……










この場合は、この最適解の選択肢である、1の働く、を取らない、という選択も私はアリだと考えます(死んじゃうので)。






え?



取らなかった先も『死』だって?


そうですよね。どっちを選んでも、死。
そのジレンマは私も12年以上悩んでいて未だ答えが出せていないので、

そこは痛いほど解ります


ぶっちゃけいうと、日本の社会って常識で考えたらもう1の選択を外したら、もう、なんですよ。






だから常識的に生きるのであれば、1,2,3,4の選択肢なんて初めからなく

1しかない

んです。


だから、
1で生きていけない人は



死ぬしかないです。
自動的に4(死)へ。



で、ここで考えるのを止めちゃうと、本当に1、もしくは1からの4(死)、しかなくなるので、もうちょっと考えていきますね。






2.福祉に頼る


国の福祉に助けてもらいながら生きる、という選択があります。具体的には、主に生活保護精神病での障害年金ですね。





ただ、ここにも問題が2つ。

1つめは、それを本人が受け入れられるのかどうか、ということです。上でも書いたように、社会の常識では飽くまで『働く』以外の選択肢は認められていないんですよ。よって、周囲からのパッシング、また自責の念を、払拭できるかどうか。
福祉に頼って生きるのは、一人前の大人として、社会人として恥ずかしい、情けない、という気持ちから、1(ROUDOU)を選ばざるを得なくなってしまうんですね。


2つめの問題は、その福祉自体が受けられるかどうか、ということです。生活保護障害年金。いずれも、それを受けるためには条件が出てきます。
その条件を自分がクリアできるのかどうか。また、今後社会保障が先細りしていくことが目に見えている日本で、いつまでそれらの福祉制度が実体を保っていられるのか
様々な不安要素があります。





早い話が、この2つめの問題さえなんとかなれば、巷で言われている『親が死んだら生活保護』、でニートやひきこもりの人たちは寿命まで生きていけるんですよ。
しかし、それが日本の経済状況悪化に伴い、今後厳しくなっていくことを考えると、その考え方で親の死後も大丈夫、だとは言い切れない



ニートやひきこもりの問題は、表面化しているようで、まだ表面化していません
まだ水面下で問題になっているだけです。今はまだ高齢ニートといえど、そのほとんどの親は存命ですから。収入年金があり、それでニートも生活できています。



 
本当にニート・ひきこもりが社会問題になるのは、現在40代から50代にさしかかっている大量の高齢ニートたちの親が死んで、その人たちの生活が立ち行かなくなる段階に到達してからなんです。
魔界の穴的にいえば、まだ今は第二段階くらいなので。第三段階に突入してから、社会的な大問題に発展するんですね。





で、ここで少し先ほどの1の話に戻ります。

そう、親の死後、ニート・ひきこもりが就職する、という話です。

しかし、まず、これが現実的にはほぼ不可能
比較的若いうち(10~30代)からニート・ひきこもりになって、親が死ぬ年齢(60代~)くらいまでニート・ひきこもりだった人たちが、親の死後めでたく就職し、継続して死ぬまで自分の食い扶持を稼ぎ続けられる、というのは、




全体の数%だと思うんですよ。









1,2%いるかどうかとか。
そんなレベルだと思います。



ぶっちゃけ、この私と同じで、そういう人たちは職場ではまるで使い物にならないし、その使い物にならない状態でも毎日会社に通い続ける根性(?)もその人たちにはないです。これは努力や我慢で解決できる問題ではなく、末路まで引きこもってしまう時点で、もう彼らは普通の人とは異なった存在です。その多くが実質的には知的障害を持っていたり精神病を患っていたりするため、普通の人と同じやり方で就労を行うことは、できない。それこそ、強制労働施設を作り、常に一定の脱落者(死者)を出しながら、というさながら地獄のような状況で無理やり働かせなければ、長期的なニート、ひきこもりの人たちを継続して労働に従事させ続けることは不可能です。







つまり、そういった人権を無視した選択を取らなければ、ほとんどの親を失った高齢ニートたちは労働に従事なんてできない
となるとその人たちは現実的に、2,3,4のいずれかの道しかないわけで。

で、あとから紹介しますが、3,4は選択肢としてあってないようなもの、なんです。
4の選択肢はどれも選べなかった人間が消去法で行きつく、いえ、行きつかざるを得ないところですし、3も非常に4に近い選択になります。



つまり、現実問題、親を失った高齢ニートが生きるためには、この2しかないんですね。







この2の『福祉に救われる道』が叶うか叶わないかは、彼ら(おまえもだろ)の死活問題なんですよ。



ここが仮に崩壊、もしくは形骸化していたとしたら、親を失った高齢ニートの一部、そう、ほんのごく一部はなんとか仕事をして生きていくでしょうが、大多数の人たちは強制的に、3か4に行くしかなくなる

つまり、ニートが親の死後も生きられるかどうか? という問いかけは、イコールして
日本の社会福祉に彼らを救うだけの体力があるかどうか
、になるわけなんですね。






もちろん、日本の社会福祉制度がこれからどうなっていくかは分かりません。
暗澹とした様相を呈しているのは、なんとなく予測がつきますが。


社会福祉崩壊レベル1:富裕層以外、福祉(年金)だけで老後を送れる人がいなくなり、働ける人全員が死ぬまで働く社会になる

社会福祉崩壊レベル2:貧困者が急増し、社会福祉がそれを支えきれなくなり、すべての福祉が形骸化する

社会福祉崩壊レベル3:無職強制労働施設や貧困者の収容所が出来る

社会福祉崩壊レベル4:夥しい数の人間が貧困により死ぬ。貧困者のスラムが生まれる。ヒャッハーまで秒読み社会になる






どこまで行くかは分かりません(この予想は私の勝手な推測です笑)。




3.ホームレス・アウトロー・受刑者になる


先述の通り、この選択は非常に危険な選択です。
到底平穏な生活とは言えませんし、今すぐ死ぬよりはなんとかなるかもしれないという、暫定的なものです。

ホームレスにしろ、アウトローにしろ、アウトロー後の刑務所生活にしろ、2の福祉がまともに機能しなくなり、大量の人間がそこに落ちていくような世の中になれば、今とは様相が変わっていると思います。
簡単な話、貧困者の収容所などが生まれたり、またその貧困者収容所や現在の刑務所が、バリバリの強制労働施設化していたりして、ほとんど地獄状態とかね。




もちろん、現在の法律上そんな強制労働は許されませんが、法律上ではセーフだけど、実態はほとんど強制労働施設化した更生施設。ってなると……ね。なんかあり得そうじゃないですか。ブラック企業も法律上アウトなんですけど、腐るほど存在してますし。






また、ホームレスといっても、飯の種は必要です。
衣食住を捨てたのがホームレスですが、はともかく(服は1着あればいいので)、食は捨てたら死にます。で、そのホームレスの数が増えていった場合、ホームレス全員が食っていけるほどのの割り当てが果たして今と同じように、ホームレスの世界にあるのかどうか?
食ってすらいけないなら、ホームレスという選択肢すら選べなくなる







アウトローは短期的なもので、選択肢というには微妙なラインです。
なにせ、犯罪を犯したら捕まりますから。生きるためといえども関係なしに。なので結局、刑務所生活になり……その刑務所や収容所が上記のようなインフェルノ状態になっていれば、悲惨の一言ですよね。

そしてアウトローといっても、ニートや引きこもりだった人が本格的なアウトロー組織に所属することは考えにくいです。つまり、犯罪組織の一員として生活が安定する、ということも難しい。もっとも貧困ビジネスで搾取される側の人間として組織の最下層に入ることなら可能でしょうが、そういった存在に搾取されている状態というのは、非常に苦しい立場であると思います。今後、日本の貧困化に伴い、貧困ビジネスは更に肥大化し、更に悪魔化していくでしょうね。






4.死ぬ


仕事にも就けず、社会福祉が崩壊しているがゆえに、誰からも助けてもらえない。
またホームレスやアウトローとして生きていくのも、ほとんど地獄状態。

こうなればを選ぶ人も出てきます。
私も、仮に65歳で天涯孤独となり、貯蓄もなく、上記のような状況にぶち当たったら、消去法で死を選ぶと思います。




……悲しい未来ですね。








くろやぎの家庭事情


さてここから、やや唐突ですが、
ウチの家庭事情について語っていきます。
何らかの参考にして頂けば幸いです(何の参考にもならねーだろ^-^;







経済状況・月の生活費


我が家の経済状況は、収入、貯蓄の両面から見ると、普通やや下、くらいです。
家族の全員が節約家。基本的に皆、金を使う趣味を持たない人間です。
生活費にもそれほど金を使っているわけではなく、私がたまにtwitterにUPしている食事を見て頂ければ解りますが、あの程度の(費用の)食事で(私が働いている時、働いていない時、に関わらず)幼い時からずっときています。外食は誕生日などの記念日に行く程度。あとは親戚などが集まったときだけです。その時も、それほど高いものを食べるわけではなく、近所の大衆中華料理屋回転ずしに行くくらいのものです。





決してカツカツなわけではないけど、贅沢はしないタイプの家庭です。


家族の趣味は主に、テレビです。私以外の全員、テレビが趣味です。これでもかってくらい皆、延々とテレビを観ていますエアコンも余程暑い、寒いとき以外は点けない。旅行にも比較的近場に年1度行くかどうかくらい。





ということで、同収入、同資産の家庭と比較した場合でも月の生活費が、かなり低水準で抑えられていると思います。ちなみに、私は月2万円を社会人になったときから欠かさず毎月家に入れています。ニートしている今もです。一般的な実家暮らしの人が家に入れる金額と比較すれば、明らかに少ない額ですけど、一応ね。自分の食費代くらいは賄えていると思うので。







親が持つ資産


まず、私の家は持ち家です。
年間数万円固定資産税のみが、この家を維持するのに必要な費用です(修繕費は考えていません;)。
また私は家を売却するつもりは生涯ありません。この家で生きて、この家で死ぬつもりです。
仮に売ったとしてもかなりの古屋なので、大した額にはならないでしょう。それに売ると住居がなくなるので、賃貸に住まなければならなくなります(毎月家賃が必要になり、総合的な負担が増します)。一応もありますが、アレも二束三文にしかなりません。





次に、親の貯金額
これについては、各人おおよその金額しか知らないのですが、親の今後(死ぬまでの)の生活費、及び入院費、手術代、老人ホーム代を賄える程度の金額、です(年金の受給を計算に入れた上で)。

つまり、解りやすく言えば、親自身がこれから先生きていくお金はあるけれど、私に相続するお金はないか、あってもほんの小額、だということです。
少なくとも、私が頼みの綱に出来るほどの財産では決してないです。

そもそも、多額の遺産(少なくとも私が最低限生きていける金額)を親から相続できる予定があるのなら、私は現状、こんなに追い込まれてないですし、これまでも労働にて、死と隣り合わせになるほど精神的に追い詰められることもありませんでした。






親との関係・家での立ち位置


まず、この記事にも書いたのですが




うちの親は、昔からとにかく『普通』を求めます。求める、というか、あって然るべきもの、として認識しています。





まさに、普通そのもの、ですね。

普通に学校を出て、普通に正社員として就職して、普通に結婚して、普通に子供を産む。


という普通のことを、普通に求めています。

逆に言えば、私の親が私に望んでいることは、この程度です。大金持ちになれとか、良い大学を出て良い会社に入れとか、そういうことじゃない。





この程度なんです。親が求めているものは。
しかし、同時にここを達成できないのは、あり得ない、という価値観も持っています。
このラインは当たり前にできることだから、当たり前にできて当たり前、という価値観を昔から持っています。







そして、
私はそれができなかった人間です。





ただ、結婚と子育てに関しては、私一人の問題じゃないんで。
私は元々、結婚のための結婚なんてする気はなかったし、加えて親の意向云々に他人の人生(奥さんになる人や産まれてくる子供)を付き合わせるわけにはいかないので、親のために結婚する、なんて考えはハナから持っていませんでした。正社員として働いているうちは、結婚のことはしょっちゅう言われていましたけどね。





しかし、こと就職、に関しては。
親どうこうの前に、そうしなければ私自身が生きていけないということもあって。
必死になってこの『普通に働く』という部分だけはなんとかしてこなしてきたんですね。




でもやっぱり、無理だった。無理に無理を重ねて維持し続けていたハリボテは剥がれ……
32歳にして、ついに普通ではない自分が、親の前に露呈してしまったわけです。

親から見れば、有り得ない、自分が。








で。


肝心の、私と家族との関係なんですけれども。

お互い、愛し愛されているかといえば、愛し愛されています。


しかし、私と私の家族では、人間としての価値観があまりにも違い過ぎるんですよね。


親は、すごく普通で、
すごくまともな人間なんです。






だから、お互いに踏み込んだ会話が一切ない
互いに心の奥まで踏み込めないし、踏み込まない

そういう関係なんです。
私が思春期辺りから、ずっと。

私が仕事をしていた時(つまり2016.9より以前)の関係は良好だったのかというと、決してそうではなく、私は家族との会話をほとんどしていませんでした
私は仕事をこなしていくだけで、自分の全存在が全時間に渡って費やされているくらいの残念なスペックですので、家族のことを考える余裕は頭の片隅にもなく、会話をしても、挨拶か生返事程度、一言も言葉を交わさない日も多かった。ほとんど家では廃人状態でしたからね(いえ、職場でも廃人状態なんですけど、職場では仮面をつけた仮面廃人だったので笑)。





それでも、親としては良かったと思うんです。
私が『普通』だったから


もちろん、私の頭は全力でイカレていました(今もですが)。この先親が死んだとき、臨終、また葬式で悲しみの感情が湧いてこなかったらどうしよう、と、常々本気で考えていました。それはもうなんていうか人間の形をした人間じゃないナニカですよね。実際、11年間生きていた犬が、そう、私がちょうど働き始めた(20歳くらい)ころから飼っていた犬がいたんですけど。その犬が去年、11歳で急死したんですよ。仕事を辞める半年前くらいですかね。その犬が死んだ時、その犬の死を聞いた私の頭に浮かんだものは、『この後、自分の感情はどう動くのだろうか?』という思考でした。ええ、リアルに。リアルにこの字面が脳裏に浮かんだ。そして感情は何も動かなかった。その11年間家の中で飼っていた犬のことは、何も考えられなかった。悲し過ぎて、とか唐突過ぎてショックで、とかではなく。まったくもって平常運転で。いつもと変わらず、何もないまま何も変わらなかったんです。






今は、働いていた時に比べたら、家族と交わす言葉は増えました。家にいる時間も長いですしね。
しかし、心理的な溝はちっとも埋まっていないし、親は決して私の状態に対して「理解」をしたわけではないので(理解し合うことはできません。永遠に)。ぎこちなさ感、ギクシャク感は、ハンパなくあります。親が『普通ではない私』に対して、心の底で不満を抱えているのも、伝わってきます。






当然私の家での立場も弱いです。働いていないのに家に置いてもらっている立場なので。
親の発言や意向には逆らえません。ただ、気は遣ってくれているので、今すぐ働けとかそういうことは言われません。もちろん、親としては不本意なんですよね。それはひしひしと伝わってくる。私が働いていないのは『普通』じゃないから







ああ、もちろん、世間一般の普通の水準が、これとは全く違うことは解ってますよ。

世間一般の普通の水準は、自立して一人暮らし、もしくは結婚して所帯を持つ、子供を産んで育て、正社員であることなど当たり前、30歳過ぎていれば何度か昇進もして、それなりの年収がある……くらいが、いわゆる、30過ぎという年齢では普通、ですよね。

解っていますが、
それはもうどうでもいい^-^;
私にとっては、別世界の話です。







家事の分担


炊事、洗濯、家の掃除、畑仕事など、大体親と半々くらいの分量でこなしております。
養われている立場の私がもっと多くの家事を負担すべきなんでしょうけど、それ(家事)だけやっていても未来が見えない、っていうのがあって。それ(家事)だけやっていれば生涯食っていけるなら、可能な限りやってますけど。




そういうわけでもないので、他にも時間を割かざるを得ないわけなんですよね。
このブログにも結構な時間を割いてますし。








親に対して申し訳ない気持ちはないのか?


あります

それは、痛烈にあります
たかだか『普通』であることしか望んでない親に、『普通』であることさえできなかった申し訳なさは、痛烈にあります。

でも、だから頑張ろう、
という選択肢は、取れない

取れるものなら、取りたい。だけど、取れない。
何故かというと、今までの11年間が、その選択肢を取ってきた11年間だからです。





なんとかギリギリ『普通』に。
なんとかギリギリ『正社員で普通に働く、という普通に』しがみついてきたのが、今までの11年間だったから。

その選択肢は、もう、取った後なんです。




(念のため言っておきますが、今回書いたことが私と家族とのすべて、ではないです。取り急ぎ今、話せる範囲内で話せることだけ…)

日本では労働者のレールから降りた時点で詰む


正直、定年まで働く生き方がスタンダードになっている日本では、働くことを辞めてしまったら最後、人生詰みます


そのことは、私も嫌というほど解っていました
この詰む、というのは、死の危険度が著しく増すということです。








それでもなお私が仕事を辞めた理由は、
明日詰む(死ぬ)ことなら仕事を辞めることで回避できたからです。





今死ぬか、後で死ぬか。






この選択だったので、私は後で死ぬ方を取りました。
ただ、それだけのことです。




ちなみに、辞めようと迷い始めていたときから、辞職後は家を出るつもりでした。
仕事をしていない私(普通ではない私)を、親が家に置いてくれるとは、このとき(実際に辞職する直前まで)まったく思っていなかったので。
なので、もう仕事を辞めたら、家を出て、経済的にはかなり苦しくなるけれども一人暮らしをして、……、……、って感じだったんですね(この……、っていうのは、お分かりだと思いますが、適切な生存方法が見えないという表現です^^;)。

何故普通を求めていた両親が、普通ではなくなった私(普通のふりをしきれなくなった私)を家に置いてくれたのか、ということは正確には分からないんですが、多分コレだろうな、という理由は先に紹介した記事に書いています。






ただ、仕事を辞めた後もこうして家に置いてくれていることには、ものすごく感謝しています。だって、これ、仮に放り出されていたら……マジにどうなっていたか、分かりません。


無論、私自身、職に就き、親を安心させたい、という気持ちは当然あります。
しかし、それもよりも自分の命の方が大事です。








そういう風に……








去年の夏、
初めて思えるようになりました。







『親の死後』が来るのはニート自身が60歳を超えたころ


さて、この辺りから、閑話休題。
気休め程度になるかもしれない話を、聞いてください。

親が早死にする、というケースもありますが、日本の平均寿命は85歳。
つまり、親が死ぬときには大抵自分はもう60歳を超えているんですよね。




あれ?




もうここまで(60歳まで)
生きられたら良くね?





って思いません?




だって、この後にあるのは、
『老後だけ』ですよ?







老後の20年間があるだけ




親の庇護下で生きてきた人とそうでない人の差は……『この20年を、平穏無事に生きられるか、生きられないか』、っていうだけ。




『そこ』、って
そんなに重要?









つまりですね、親の金で親が死ぬまで生きられるニートなら、
老後さえ諦めれば、それまでは普通に生きられる
わけです。

ニートの末路……末路は最悪かもしれないけど、
いってしまえばそれは、文字通り、末路

最後だけなんです。


ニートで毎日気楽な人はほぼいない


といっても、不安ですよね。
ええ、上のはね。分かっていて、理論上でだけ語ってみたんです^-^;





将来的に悲惨な末路辿る人生を割り切って楽しむ、というのはなかなかにして難易度が高いものですから。

それ故、大半のニートは、毎日を気楽になんか生きていません
将来の不安に苛まれながら生きている、という人が大多数でしょう。


ニートやひきこもりを、働かずに楽して過ごしている、と責める方がいますが、正直、それは一部の超然としたニート・ひきこもりだけで、ほとんどのニート・ひきこもりは精神的に非常に追い込まれた状態で日々を過ごしており、傍目に見てもその人生は他人が羨む価値のあるものだとはとても思えません(ただ、責めたい気持ちは、解ります。私も社畜時代、精神がザナルカンドレベルで荒廃していたとき、ニートやひきこもりの人のブログを見に行って、(本当はそれが間違っていると気付きながらも)コイツ楽しやがって、とか、コイツよりはマシだ、とか勝手に思って自分の荒んだ心を慰めていた時があるんで^-^;(一応断っておきますが、そのような人に対して、直接的なactionを図ったことは一度もないです))。







ニート・ひきこもりが将来、詰まないためにやるべきこと


さて、ここまで延々と暗いことを書いてきましたけれども、
ここから、じゃあこれらを踏まえた上で、私を含めたニートやひきこもりの人たちは、詰まないためにどうしていけばいいのか、ということを、考えてみます。

ただし、今あなたがニート・ひきこもりだったとしても、親や社会の圧力ではなく、自分自身で、本当に社会に出て一人前の社会人として働きたい、という思いを抱いているのであれば、私の言うことは何の参考にもならないので。こんな腐れブログは閉じて、もっとまともな人の意見を聞いてください。もっとまともな人はですね、もう、いくらでもいます。
その辺の人にランダムに話しかけても、私よりはまず間違いなくまともな人に当たるでしょう(笑)






私はまともじゃない人です。







そして、
どうやってもまともにはなれない人です。











なので、
自分がどうしようもないクズでとても社会に出てまともに働くことなんてできない、と思っている方だけ以下を参考にしてください。









↓↓↓↓↓↓↓↓↓








はい。

まずですね、最初に親の死後、ニートの辿る道は4つしかないと書きましたが、この4つの道は、その道だけを歩んでも、どれもどん詰まりです。


なので、5つめの道
我々は選ぶしかない。








その、5つめの道、とは……
















たったから、
まともに生きることを止める。


















です。









親の死後ではなく、
たった今から。







『普通の生き方』

『常識的な生き方』





これを、捨てる


もっというと、
これ縛られている心を、捨てる


なぜ捨てるか、というと、
そうしないと死んじゃうから






逆に、死んじゃうほどじゃない(まだまだ自分は限界ラインには達していないと思う)のなら、頑張れ。ただ、その境界線を見誤ると普通に死にますから。




見極めは慎重に。






















具体的にどうやっていくか
ということですが。。。
















生涯、自立なんてしなくていい、です。












なぜならそれは無理だから。








例えば、普通のサラリーマンをしている人が、今からオリンピック選手になるのって、無理でしょ? 100%無理じゃないかもしれないけど、100%に限りなく近いレベルで無理でしょ? 






それと同じことです。




無理なんです。








長期のニートやひきこもりが、今から正社員で定年までという普通基準のサラリーマンになる難易度と、正社員として普通に生きているサラリーマンが、今からオリンピック選手になる難易度は、さして変わらない。





(違う、と思うのは、貴方が普通だから)





親を頼って生きる自分を自分で認め(他人がどう思うかは気にしない)、
親がいなくなった後のことだけを考えて、そこで必要になるお金のことだけを考える
んです。



これが、現在ニートやひきこもりで、どう考えてもまともに働けない人たちが取るベストな選択だと思います。











働け?






社会に出ろ?










無理です。








無理なものは無理。
そう腹を括るんです。

自分が社会的には、そして常識的にはどうしようもないゴミだということを、
自覚するしかないんです。



常識的に生きている方から見れば、こんな考え方は腐れ外道そのものですが、




そもそも、命を懸けてまで守る価値なんて、
常識にはありません






なので、この先、
親が死ぬまでニートでいいんです。

ひきこもりでいいんです。


それで、いいんです。




まともに生きられないことは、死ななければならないほどの罪ではない




今回私が
徹底して訴えかけたいことは、




この、常識的に生きられない(一人前の大人、一人前の社会人になれない)ということは、
果たして
死ななければならないほどの罪なのか?
 
ということです。









当然ね。

ちゃんと社会人として働いて生きている人と。
それが能わず、誰か、何かの保護によって生きている人



この2者の格差は必ずつけるべきです。




ちゃんと毎日働いている人が、夕飯にステーキを食べていたら、働けていない私は、夕飯に魚の缶詰を食べる。

ちゃんと毎日働いている人が、週末にUSJに出かけていたら、働けていない私は、近所の公園にでかける。



こういう格差はあっていい。
むしろなけりゃ平等じゃない。




頑張って働いている人が、美味しいものを食べたり、楽しいことをしたりしているのは、当然です。だって彼らは頑張って働いているんだから。
それくらいの恩恵があって当然です。




























しかし。





しかし、そうではなく、
まともに働ける能力がなく、
一人前の社会人として生きていけない人たち




死ななければならない存在だ。




とまで言われたら……







私はそれに反対します。











なぜなら、
死ななければならないほどのことなんて、
何もしていないから。


弱いことは、罪ですか?







何かに、誰かに養われて生きることは、
死ななければならないほどの罪ではない。





私は、
そう思っています。






最低限の生活、というものは、
人は生まれてきただけで
死ぬまで保障されるべきもの
、だと
私は思います。





それが、
心ある人間社会の在り方だと思うからです。



頑張った人、頑張っている人ほど報われる社会であるべき、ですが、頑張ろうとしても頑張れなかったいわゆるダメ人間でも、最低限は生きていける程度の社会でなければならない。




確かに、この生き方をすることで、親や国、国と言うとつまり他の国民に対して迷惑をかけることにもなるでしょう。それは、悪いことではあるかもしれない。誰かに負担を強いていることになるのかもしれない。でも、だからといって、それが死ななければならないほど悪いことだとは、思わない。





最低限の生活すら保障されない罪だとは、
思えない。










なので、
誰かに、まともに生きられないくらいなら、
とっとと死ね

と言われたら、私はそれを拒否します



働いている人以上の生活水準を求めるだとか。
不満を募らせて、それで他人を攻撃するだとか。

そうなれば話は別ですが、




ただ生きたいだけ。

ただ最低限の生活を送りたいだけ。







そういった人たちの生命までが、
常識によって脅かされることに、
私は断固反対します。






ニートの末路……?

そんなものは、生活保護でいいんですよ。


ええ、生活保護で、いいんです(願望)。


しかし国民の多くには、ニートを生活保護(つまりは我々の税金)で養いたくない、という気持ちがある。










問題は、
『なぜ』その気持ちが出てくるか
です。






例えば、自分が働いていてそれなりに裕福で幸せな暮らしをしていて。一方で働いていないけど、自分よりも遥かに劣る生活水準で暮らしている人たち(いわゆる最低限の生活をしている人たち)がいたとして。



この状況でこういう人たちの生活費に自分の稼ぎの一部が使われていたとしても、それほどの怒りは湧いてこないと思うんですよ。








なぜなら、
羨ましいと思わないから。






嫉妬の感情
湧いてこないから










選民思想の方でなければ、この格差ある待遇が実現されている状況でなお彼らを糾弾しようとは思わないはずです。




しかし今の日本の現実はどうでしょう?
働いている自分ですら、
生活水準がギリギリで、大して幸せでもない
そんな中で、働いてもいない人たちが、
自分たちと同水準、
もしくはそれ以上の生活をしている


これで羨ましい
思わない方がおかしい。
怒りが湧かない方がおかしい


そんな奴らは死ね
っていう先走った感情が出てきても、
ある意味自然








だから



ここの格差は、ちゃんとつけなきゃダメなんですよ。ここは格差があっての平等、なんだから。


必ず生活環境は、

働いている人働いておらず、誰かに生かされている人

にしなきゃダメなんです。


近年問題になり続けている、生活保護の受給額が最低賃金で働いている人たちやその人たちの年金受給額を上回っている現象
こんなものは、明らかにおかしい直ちに是正すべき問題だと思います。働いている人の待遇を上げる形でね。
もちろん、その声は、生活保護受給者に向かって言うのではなく、政治に向かって言うべきです。なぜなら生活保護受給者は決定権を持っていませんから。決定される側の人間ですからね。その人たちに言っても、仕方がない(生活保護に関しては、またそれをメインに1つ記事を書こうと考えています。いつか^-^;)。













働いていない人が
働いている人の生活水準を超える



だなんて、


そんなこと、
あってはいけない。







しかし。













ただ生きたいだけ。








最低限の生活をしたいだけ、ということなら、
それは、
死ななければならないほどのことではない。
















私は、そう思います。






























↑ついに就職!?笑












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