ロックフェラー回顧録の感想①

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デイヴィッド・ロックフェラー


ロックフェラーの回顧録という書籍を、新品で購入しました。3000円です。著者は、デイヴィッド・ロックフェラー、その人です。1915年にロックフェラー二世の末っ子(つまり三世)として生まれ、2017年101歳で生涯を閉じた故人です。彼は親日でもあったらしい。ようは、自伝みたいなものですね(回顧録とは過去を振り返り書かれたもの)。発行2007年。ですが、デイヴィッドロックフェラーは2002年にこの本を書き上げたようです(あとがきには10年以上の歳月をかけて書かれた、あとがき自体は2003年の日付になっている)。なので、ざっくり20年前の本かな。自らの90年余りの人生を振り返る。帯には、米国最強の一族、富と力の全記録、とかかれています。米国最強といえば、ビスケットオリバを思い出します(笑)世界最強の国家、米国……の最強の男、つまりデイヴィッド・ロックフェラー世界最強の男、リアル範馬勇次郎なのでしょうか?

今回より、私自身の勉強のために著書を解析し、感想を述べてきたいと思います。650ページもあるので、一読するだけでも大変です(大変でした)。購入動機はやはり、本人による手記である、ということです。記事では著書を解析しつつ、個人的に重要だと思う部分のみを抽出し、私見を述べていきます。
★当記事は私個人の取捨選択、及び私個人の価値観によるフィルター(バイアス)がかかっています。また、一回しか読んでいない為、解釈が間違っている場合があるかもしれません。デイヴィッドロックフェラー氏の意思をそのまま読み取りたいかたは、素直に著書をお買い求めください。

ロックフェラー家の基礎知識


ロックフェラー家
アメリカで石油事業によって財を成した家系。
創業者のジョン・ロックフェラーは石油王と呼ばれた。
1870年、ジョン・ロックフェラーがスタンダードオイル社を設立。のちに独占禁止法により分社化され、現在は石油大手エクソンモービル(+シェブロン)である。


エクソンモービルは、2001年から2016年まで世界企業時価総額ランキング5位以内に入り続けている。GAFAM等の巨大IT企業が台頭し始めるまでは、世界経済の覇者であったといえる。

国際石油資本。いわゆる石油メジャー(世界の石油系巨大企業複合体の総称)。

ジョン・ロックフェラー(祖父 1839年7月8日 – 1937年5月23日)

ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニア(父 1874年1月29日 – 1960年5月11日)

アビー・ロックフェラー・モーズ(長女 1903年11月9日 – 1976年5月27日)
ジョン・ロックフェラー3世(長男 1906年3月21日 – 1978年7月10日)
ネルソン・ロックフェラー(次男 1908年7月8日 – 1979年1月26日)
ローレンス・スピールマン・ロックフェラー(三男 1910年5月26日 – 2004年7月11日)
ウィンスロップ・ロックフェラー(四男 1912年5月1日 – 1973年2月22日)
デイヴィッド・ロックフェラー(末っ子 1915年6月12日 – 2017年3月20日)


祖父・ジョンロックフェラー


ロックフェラー家の代名詞、ミスターロックフェラーは初代ロックフェラーである、ジョン・ロックフェラーであり、著者のデイヴィッド・ロックフェラーの祖父にあたる。

著者デイヴィッドロックフェラーから見た、祖父ジョンロックフェラーについて書かれている。祖父はデイヴィッドこそが自分に最も似ていると語っていた。


デイヴィッドの祖父、ジョンロックフェラー(ロックフェラー一世)は、アメリカオハイオ州にて、スタンダードオイル社を立ち上げた。


1911年に独占禁止法により分社化されるまで、当社は米国の石油産業そのものだった。祖父は全米一の金持ちとなる。ジョンロックフェラーの商法は、競争他者を排除し、独占を狙うものであり、進歩主義者、人民主義者、社会主義者から嫌われた(政治家や新聞記者・ジャーナリストなど)。しかしデイヴィッドは、祖父とスタンダード社を、果敢に競争に挑んだが当時の商法上の習いを超えるような罪(違法行為)は行っていない、と語る。

確かにスタンダード社は事実上の独占企業だった。国内石油産業の90%を支配し、残り10%の買い占めに全力で取り組んだ。しかし祖父は、市場独占による被害は、労働者や消費者をはじめとする国家には及ばない、と見ていた。スタンダード社の製品は安価で高品質だった。新技術に投資し、製品性能を向上させた。祖父は低価格をポリシーとし、製品価格を下げれば購入者が増え、自社利益の拡大につながると考えた。薄利多売が優れた商法だと考えていた。精油所を買収し、新たな油田を開発し、需要に応えるだけではなく、自ら需要を創出した。新技術への投資を重視し、製造費用に注意を払う。製品のマーケティングも重要視した。油井の産出から顧客への配送、そのすべてに目配りし、産業を統合していった。
1911年、独占禁止法でスタンダード社は解体され、米国民は喜んだが、スタンダード社が安価で高品質な石油供給をもたらし、米国の経済成長に貢献したことを忘れないでほしいとデイヴィッドは訴えている。

祖父、ジョンはニューヨーク州の質素な家庭で育った。父親(ジョンの父)は家庭を顧みず、放蕩で真面目に働こうとしなかった。ジョンを主に育てた母親は信仰心(キリスト教)の厚い女性であった。デイヴィッドから見て、祖父(ジョン)は快活でユーモアのある人間だった(子には厳しいが、孫には優しかったのだろう)。



寄付の技法


祖父にとっての難題は、財産管理だった。1910年に祖父の財産は10億ドルに達していた。
現代2023年で計算すると、33227470238ドルになる。332億ドル。円だと大体、4兆8000億円。


スタンダード社の収益、投資資産からの収益は莫大な年収であった。祖父は収入の大部分を、炭鉱、鉄道、保険会社、銀行、各種製造業に投資した。資源の豊富なミネソタ州メサビ山地のほとんどを支配した(買い占めた)。
しかし、スタンダード社を退職してからは、別の投資形態を取る。それが慈善事業で、祖父はこれを「寄付の技法」と呼んだ。慈善事業を行えば、慈善事業先に対して多大な影響力を持つことが可能になる(現代では同じような事をビルゲイツ氏がやっている)。慈善事業家としては鋼鉄王アンドリューカーネギーと並び称される(アンドリューカーネギーは事業で大成功を収めたのちに、膨大な慈善事業を行った)。祖父が行った慈善事業には、シカゴ大学創立、ロックフェラー医学研究所設立、一般教育委員会設立、などがある。1913年にはロックフェラー財団(慈善団体)を設立する。財団は資金力を以て様々な病気と闘い、またトウモロコシ、米、小麦などの雑種開発を先導した。
デイヴィッドは、祖父を「利己主義者が成功した後に、貪欲な営利行為のイメージを払拭するために広報戦略(慈善事業)を展開している」と非難する世間の人々を、否定している。

彼は祖父を尊敬し、自分は偉大な祖父の足跡を辿っているにすぎない、としている。
デイヴィッドから見ても、初代ロックフェラージョンロックフェラー)は偉大な人物だったのだろう。

父・ロックフェラー二世



デイヴィッドの父、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニア(ロックフェラー二世)、そして母、アビゲイル・グリーン・アルドリッチ・ロックフェラーについて書いている。


父は祖父(ジョンロックフェラー)の後継者としてロックフェラー財団ロックフェラー研究所、の会長を務めた。

父母は1901年に結婚。母親は、共和党与党院のネルソン・オルドリッチの娘だ。ネルソンは連邦準備制度の形成を通し、高関税設定、柔軟な通貨制度、安定した銀行制度新設に貢献した。
父は子供たち全員を深く愛していたが、父自身が祖父(ジョンロックフェラー)から厳しいしつけを受けたせいで、親としての柔軟性を欠いていた。父は複雑な人間だった。祖父(ジョンロックフェラー)はゼロからスタートして巨額の財産を築き上げ、独力で成功した大人物だ。父が祖父を凌ぐのは無理だった。父は大変優秀だったが、祖父に対し劣等感を持っていた。父はロックフェラーの名前と祖父の財産を受け継ぐために、生涯に渡って必死だった。その重圧で30代の頃には鬱病(当時の名称は神経衰弱)にもなっていた。

ラドロー事件では、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニアの管理していた、コロラド州南部の炭鉱町ラドローで大規模ストライキが起きた。賃金、労働時間、安全対策、労働組合の設置、などを訴えたのだ(つまり、それらの環境が劣悪だったということだ)。このストライキは暴力事件にまで発展し、州兵が出動し、双方多くの犠牲が出た。父は労働者側と交渉し、結果的にこの事件は、アメリカの労使関係を改善するきっかけとなった。父は実業家としての才能や素地には欠けるが、社会の形成に尽力した人物であった。これにより祖父にも認められたという。父の目標はロックフェラー財団の目標と同じく、世界人類の幸福推進だ。

子ども時代と、兄弟


デイヴィッドの子ども時代について書かれている。
1915年に自宅の中にある診療所で生まれた。デイヴィッド本人は子供時代の家庭を「まったく質素というわけでもなかった」と書いている。他の富豪は銃眼胸壁の城の如く強大で、広大な舞踏場を備えていた。それに比べれば、という意味だ。それでもデイヴィッドの家はニューヨーク市にある9階建てで(9階に住んでいるのではなく家が9階建て)、屋上に遊技場、階下にスカッシュコート、屋内体操場、専属診療所があった。二階のパイプオルガンが備えられた音楽室では著名人を招いてリサイタルを行っていた。7階の子ども部屋を画廊に改装したりもした(自宅でめでた作品は最終的には美術館に寄贈された)。
父母は芸術品の蒐集家だった。芸術好きが高じてMOMA美術館の設立にも貢献した。父は自宅通路に作品を展示した。十枚組ゴブラン織りタペストリー「ルカの月暦図」「一角獣狩り」などである。また、明朝、康熙帝時代の中国製磁器も好んだ。母もアジア美術を愛好し、仏陀の間という部屋を自宅内に作り、仏陀像、観音像を並べた。他にも日本の北斎、広重、歌麿の版画、花鳥版画、能装束、欧州のアンティーク磁器も揃えた。


学校教育において、デイヴィッドは失読症で苦しんだ。それでも17歳でハーバード大学に入学する。

週末はポカンティコヒルズの別荘で過ごした。ロックフェラー家はポカンティコヒルズの小さな村と周囲14平方キロの土地を買い占めた。村の居住者はロックフェラーの従者として働き、祖父が所有する家で暮らした。


7人以上乗れる車に乗っていた。
夏はメーン州マウントデザート島南東岸のシールハーバーのアイリー邸(別邸)で過ごした。家族と使用人だけで列車(寝台車)の一両が満員になる。父母、6人の子ども、看護師、家庭教師、個人秘書、従者、給仕婦、台所女中、客間女中、部屋女中、様々いた。アイリー邸の100ある部屋の面倒を見るために必要となる人々だ。子供のデイヴィッドは孤独感を抱えていた。使用人はたくさんいるが、他の子どもと一緒に遊んだりする経験がなかったためだ。

長男=ジョン
次男=ネルソン(のちの米副大統領)
三男=ローランス
四男=ウィンスロップ
五男=デイヴィッド

少年時代、父は子供たちを連れ、様々な場所へ旅行に出かけた。観光旅行だけでなく、独立戦争や南北戦争の爪痕を見せ、子供たちに歴史を教えた。自国だけでなく、ヨーロッパ。エジプトのカイロ。パレスチナなどにもつれていき、歴史を学ばせた。


長男のジョンは勤勉で良心的、内気で自意識過剰だったが、長男であるため、ロックフェラー3世として当主の名を受け継いだ。厳格な父から完璧を求められ、どんな功績も成功も当然と見做された。また、次男ネルソンの才に焦っていた。

次男のネルソン・ロックフェラーは社交性に優れ、父の重圧に押しつぶされず利口に生きる才覚に溢れた男だった(デイヴィッドは兄弟の中で、というより一族の中で、祖父の次にネルソンを評価している)。


ネルソンは政治家であり(最終的に米国副大統領まで上り詰めた)、狡猾であり、天性の指導者であった。その才覚ゆえ、ネルソンが真のロックフェラー当主(跡継ぎ)だと推論する者もいる。デイヴィッドはネルソン(兄)を尊敬していた(ただ、若いころは優秀な兄として尊敬していたが、父の死後、米国大統領を目指し、目的の為には手段を選ばなくなったネルソンを、自分の野望の為なら何でも犠牲にする人、と書いている)。

三男、四男についても書いてあるが省略。
私が見る限り、次男のネルソンと末っ子のデイヴィッドの二人が兄弟の中で(支配者として)抜きんでた人物であったようだ。実際にネルソンは米国副大統領、デイヴィッドはチェース銀行頭取(現在のJPモルガン)にまでなっている。

ロックフェラーセンター


著者が10代の頃。父(ロックフェラー2世)の一大事業がこの不動産事業であった。


1930年より、デイヴィッドの父、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニアにより建設開始された建物。父はこのほか要塞公園創設、自然景観保護、博物館、教会、住宅など様々な事業を行ったが、最重要の建設物はロックフェラーセンタービルであった。要するにこれは不動産業である。

1929年から1939年までに、建設費、税費用、賃借料、事業の諸経費などの支出は合計1億2500万ドルに及んだ。現在なら15億ドル以上に相当する額だ。驚かれるかもしれないが、父は1960年まで生きていたが、この巨額の投資から男の収益も受けられず、投下資本も半分以下しか取り戻せなかった。

引用:ロックフェラー回顧録75ページ
これらの資金源は父の個人資産や石油株の売却益であった。
父は常に仕事で疲れ、神経衰弱状態に陥り、ストレスにより気管支炎などの発作にも見舞われた。士気回復のため、冬にはシチリア島のタオルミーナかアリゾナ州トゥーソンに出掛け養生した。
【デイヴィッドの父は、二代目ロックフェラーとしての立場を全うするために、仕事をしているのだ。もちろん、いつでも第一線から退けるし、実際(老齢に達するより前に)退いている。が、我々一般人が正社員を辞めると社会不適合者の烙印を押されるのと同様に、世界の一線級の実業家であり続けなければ、ロックフェラー当主として不適格者の烙印を(主に、祖父のジョンロックフェラーから)押されたのだろう。凄まじい重圧の中で、生きていたと推察される】

ロックフェラーセンターの経営は、テナントである。要するにロックフェラー所有ビルの中に他の企業を入れてそこで事業をさせ、賃貸借契約させ賃貸料を取る収益モデルだ。ニューヨークの一等地にビルを建てたのは、そこで商売をする企業からの賃貸料金を取る為、である。しかし、ロックフェラーセンタの債務を完済したのは1970年。草創の50年間ほど、実質的な利益を上げていない。

1989年、高度経済成長期からバブル経済によって世界の覇権国に大手がかかった日本(の三菱)により、このロックフェラーセンタービルは一時的に買収された。これについては、著書終盤にて記述がある。日本の不動産ブームで儲けた三菱は多額の現金を保有しており、その資金力でロックフェラーセンターの株式を買った。アメリカではこれに対し批判が起こった。日本法人は米国財産を買い漁る「巨人」だと言われた。


ハーバード大学


著者、デイヴィッドはリンカーンスクールを卒業後、17歳でハーバード大学に入学する。卒論ではフェビアン社会主義の論文を書いた。


大学での成績は平均的であった。また当人は社会的な不器用さを抱えていた。周囲に守られて育ち、世間知らずで、同世代とは気が合わなかった。それよりも名士や芸術家と気が合った。そんなデイヴィッドにもベンジーとディックという同世代の男友達ができ(ともに文武兼備の優秀な大学生)、有意義な学生生活が送れた。サッカー、スカッシュ、ゴルフなども楽しんだ。大学ではヨーロッパ史、英国史、英国経済史、英文学、憲法史、ドイツ語、フランス語などを勉強した。当時の秀でた大学教授には敬意を抱いている。

1935年、友人ディックとヨーロッパを車で回った。30もの美術館を訪れた。

ドイツにも足を運んだ。ドイツは不吉な政治状況にあり、第三帝国へと変貌を遂げていた。ドイツの破滅原因がユダヤ人にある、というポスターを見かけた。人口の半数が軍服姿だった。そのあとはアルプス、オーストリアのウィーンと旅行した。
当時ドイツではヒトラーが台頭していた。美術界の名士、デフレガー一族からヒトラーの親友、エルンスト・ハンフシュテングルを紹介してもらう。彼はヒトラーのもとで広報担当をしていたハーバード大学卒業者であった。のちにヒトラーと決別しアメリカに逃れた。強制収容所の存在、ユダヤ人追放法律実施。ドイツの経済問題がユダヤ人にあるという風潮に憤慨した。

わたしは最悪の部類に属する反ユダヤの罵り言葉が公然と許容されていることに個人的な不快感を覚えた。

引用:ロックフェラー回顧録93ページ
ヒトラーに対して良い感情を持っていなかったということですね。


1934年、父は、母と6人の子どもの為に、当初価格ひとりあたりおよそ6000万ドルの撤回不能信託を設けた。1934年、フランクリン・ルーズベルト大統領は贈与税相続税の税率を引き上げた。その対策であった。相続税抜きで三代先まで遺産を譲り渡せる。こんにちでは、一族の財産の大部分はこの信託に守られている。これがなければ、ロックフェラー家の財産はほとんど、政府への税金か寄付金に消えていただろう。父は子供たちに対し、財産管理の教育を徹底していた。好きなだけ好きなように金を使えというような教育はされていなかった。

デイヴィッドは、経済学者、ジョゼフ・A・シュンペーターのもとで経済学を学ぶために、大学院へと進んだ。

偉大な経済学者に学ぶ


ロックフェラー一族は1850年代から共和党を指示している。共和党員は概ね、進歩主義者と伝統主義者に二分された。進歩主義者はニューディール政策に反対するものの、国家の介入の必要性と認める。伝統派主義者は19世紀の自由主義に戻りたがっている。

この世で最も甘い蜜が何だか知ってるか? それは、既得利権だ。
国がお金(工事費)を作って出す。

シュンペーターとケインズ


デイヴィッドは、シュンペーターを支持

大学院で学び始めたころ、ケインズ主義が巻き起こった。国家の干渉が経済活動を活気づける(需要を創出する)という思想が、専門家だけでなく世間一般で激しく議論された(今と似てる気がする^^;)。
一方、デイヴィッドは、経済学者ジョセフ・A・シュンペーターの影響を最も受けた(シュンペーターを恩師としている。逆にケインズ(本人や支持者、及びケインズ経済学)は余り好んでいなかったと文体から読み取れる)。
1936年、シュンペーター教授は50代半ばであった。


シュンペーターは新古典派経済学の正統論客として頭角を現した。経済成長における企業家(起業家)に着目した。シュンペーターはケインズの論ずる「政府干渉のない資本主義は長期に渡る不況に陥りやすく、経済が縮小される」、を認めていない。ケインズ理論の信奉者が健全な市場操作(市場原理)を失くし、恒久的に政府統制を取り入れることを恐れた。ケインズの異端思想が、西洋諸国の財政、租税、通貨に与える影響に警報を鳴らしていた。シュンペーターは若いころ馬術が趣味で、また多くの女性を大いに愛した。

ハーバラー教授の国際貿易論にも影響を受けた。当時世界は保護貿易が主流であったが、第二次大戦後に主流となっていく自由貿易論(国際貿易)の思想に強く共感した(のちのデイヴィッドが行う徹底したグローバリズムの思想が育っていく)。

1937年、大学院からさらに進学した先のロンドンスクールオブエコノミクス(LSE)にて妻となるマーガレット・マクグラスと出会う(ロックフェラーの嫁、というと超玉の輿に見えるが、結婚後は嫁姑問題(デイヴィッドの母との人間関係)で長年精神を病むほど苦しんだようだ)。
LSEで教鞭をとるマルクス派のラスキ教授に対しては否定的で、人気はあったが知的内容ではなく、プロパガンダのようなものだったと評している。ラスキの急進的一面は、貧しい人々への哀れみではなく、成功者への妬みから来ている、と書いている。

大方予想できたことだと思うが、D・ロックフェラーは、グローバリズム新自由主義寄りの思想をしている。政府の干渉がなく、国際的(グローバル)に解放された市場原理に基づく思想だ。



フリードリヒ・ハイエク




デイヴィッドは、LSEにてオーストリア人経済学者、フリードリヒ・フォン・ハイエクに師事した。ハイエクはシュンペーター同様市場原理主義者であった。今は多くの不備があっても、時間の経過とともに市場は資源を効果的に配分し、健全な経済成長を確実にする、と説いた。政府は、資源の所有者や市場の判定者ではなく(つまり市場には介入せず)、社会秩序の保証人としての役割を担うべきと考えた(夜警国家の思想)。

初めて会った時、ハイエクは三十代後半であった。ハイエクは自身と同じ自由主義経済学者を心にとめていた。存命の自由経済学者の名前を紙に書きそれを懐に入れていたのだ。

正しいことをする、んじゃない。正しいことにする、んだ。

世の中の主流は次第にケインズ派に移り変わっていった。1929年の世界恐慌から政府の財政支出ニューディール政策)でアメリカを救ったケインズに世論が傾くのは自然だった。ハイエクは1992年92歳で亡くなったがそのころには自信を取り戻していただろう、と書いている。理由は、1980年代からレーガン、サッチャーによる新自由主義市場原理主義がそれまでのケインズ主義を追い落とし、世界経済の主流となったからだ。

簡単なイデオロギー解説
新自由主義=国家の介入を失くし、市場の自由を増やそう
市場原理主義=市場に任せれば上手くいくはず
ケインズ主義=不況時は民間の活力が衰えるため、政府が財政支出(公共事業など)し、経済を回復させる

これって両方良いとこ取りしたらアカンの? 1か0じゃないとアカン理由ってなに? 好況と不況、つまり経済状況次第で濃淡を使い分ければいいんじゃね?( இωஇ )……しかし、当時も100年経った今も、よく似た論争(国家介入vs市場原理)を我々はやっていますね。

このほか、ライオネルロビンズにも影響を受けた。ロビンズは当初、ケインズやラスキと対立していたが、後に経済における国家の重要性を認めるようになった。


しかし、ロックフェラーといえど、大学などで経済学を学び、世の理を、ケインズ、シュンペーター、ハイエクといった(著名な)経済学者に学んでいることが私としては意外だった。尤も真摯に知見を広めた後、自分のやりたいことをやろうとしたのかもしれない。

また、学生時に、イギリスの政治家チャーチルの息子がデイヴィッドのもとを訪ねて来たり、アメリカのジョンFケネディが参加する舞踏会に招かれ、ケネディと親しくしたりしている(ケネディは1917年生まれなのでデイヴィッドの2歳下)。ほか、将来ペルーの首相となるペドロベルトランとも交友がある。このあたり、並みのエリート学生とは明らかに違うと感じる。
その後1937年、(学生の時に)ドイツにも旅行した。ミュンヘンにてヒトラーと武装兵の行進を目にし、デイヴィッドはヒトラーの姿をカメラで撮影した(ヒトラー側はデイヴィッドに気付いていない)。そして、ヒトラーに対し圧倒的な不快感を覚えた。その後はフランクフルトに渡った。ドイツはどこもかしこも鍵十字だらけで、ドイツ国民はヒトラーの圧政に怯えていたという。
他にもローマ、アドリア海など様々な場所に旅行に出かけている。


ロンドンで一年過ごした後、1938年、シカゴ大学経済学部に院生として入る。シカゴ経済学はフランクナイト教授などにより、マネタリズムが支持され、全体的には市場擁護の思想であった。これは、のちのミルトンフリードマンと密接に結びついていた(ミルトン・フリードマンがシカゴ大で教鞭をとったのは1946~)。フリードマンは政府は市場に一切干渉すべきではないとし、企業のビジネスは利益のみを求め、その他の社会活動に関わるべきではない、と説いた(新自由主義)。いわゆる市場の見えざる手を好んだ。企業の社会的責任を放棄するフリードマンの姿勢には、デイヴィッドは傲慢で独善的であると書いている(つまりデイヴィッドは企業には社会的責任を負うべきだ、と考えている)。

フランクナイト教授は、政府の干渉が大きくなるケインズのニューディール政策に疑いを持っていた。同時に、利益のみを追求する姿勢も問題視した。
ちなみにそのシカゴ大学・大学院は、ロックフェラーが出資して設立された。著書にも、わたしの一族(ジョンロックフェラー)がシカゴ大額を創設し、初期の数年間経営を支えた、と書かれている。
学生時代の時点で、デイヴィッドは様々な人とふれあっているが、それらの殆どが超上流階級の人間であるように読み取れる。そして出会う人々の多くが、デイヴィッドがロックフェラー三世であると知っているため、好意的に接してくれたはずだ。大学時代に親交を深めた親友も、企業経営者の子息であった。
シカゴで一年過ごし、ニューヨークに戻り、卒論制作に取り掛かった。

多くの著名な経済学者に学び、デイヴィッドは次のように記している。

わたしは実用主義者で、最大限の経済成長を達成するには、健全な財政政策と通貨政策が必要だと承知している。しかし、いくら健全でも実際の人間の要求を無視した政策は受け入れがたいことも、人間社会では安全策がきわめて重要な位置を占めることもわかっている。

引用:ロックフェラー回顧録123ページ

卒論と結婚と就職


ニューヨークに戻ると同時に、第二次世界大戦が勃発した。
デイヴィッドはポカンティコに住み、卒論制作を行った。テーマは、未開発資源と経済的な無駄、であった。大恐慌の失業者増加や生産能力不活用是正のために、市場と政府介入、どちらを頼るべきか?というものだ。ハイエク新古典派経済学市場に信頼を置いた。ケインズ派の学者たちは赤字財政策など政府介入がなければ、経済先進国が完全雇用と好景気を取り戻すことはできないと論じた。

ケインズ経済学
大恐慌が起きた際、工場の多くは生産を低迷させる。この際膨大な人々が職を失う。これに対し、公共投資を行い、彼らに職を与えることで遊休設備が利用され、雇用が増大し、生産力が回復する、という、これがケインズ経済学。なぜこんなことをするのかというと、不況時は需要がない(私たち消費者がお金を持っていない)ため、企業が生産を増やそうとしないから(生産を増やしても、それを買う金が我々にない→金儲けが目的の企業はやる意味がないどころかマイナス)。


デイヴィッドは、この際に無駄とされた遊休設備が、本当に無駄なのか疑問を持った。フーヴァー、ルーズベルトはニューディール政策を行ったが、1930年代状況が徐々に改善されても、国内には失業者が多くいた。かなりの工場が遊休状態であった。デイヴィッドは、遊休とむだを同義語にすべきではないとした。遊休設備があること自体はむだではない。需要不足以外、例えば思考や技術の変化により(消費者が求める者が移り変わり)工場が要らなくなった場合は、無駄ではない。
また、景気の良し悪しに関わらず、失業者がおり、賃金が低調なのは、経営者が利益を最大化(自分の金儲けのみを追求)しているから、だと多くの経済学者はいうが、これにもデイヴィッドは反対している。経営者が生産設備(人を含む)を使わない、と判断する理由は様々あり、原料の入手難、季節変動、税金、規制、市場の読み誤り、など多岐に渡る。デイヴィッドは、遊休設備を使わない事=むだ、に反対したのだ。
遊休施設の存在を引き合いに出して、政府の市場介入を正当化すると、不適切な行動と望ましくない結果を招きかねないという主張だ。一方で、大不況で総需要が著しく不足している場合には政府の市場介入も必要不可欠だと述べている。
企業家の動機は金儲けだけではなく、人間の創造本能、権力追求、賭博本能を一度に満たす機会を与えてくれる、と書いている。

このデイヴィッドの主張に対する私の意見:それらすべて「個人の欲求」という域にあるものであり、金儲け、と意味合いでは大差ないのでは? 個人欲求の達成のなかに、「人間の創造本能、権力追求、賭博本能、金儲け」すべて入っている。
ただ、政府介入=善みたいなのはおかしいと思う、1か0じゃないよね?っていう所には私も賛成ですね。


私は、基本方針として、不況の際は政府が市場介入度を強めて需要を創出し、好況になるにつれ、市場原理(民間の信用創造)にゆだね、モチロン儲けすぎた者からは税を取って、競争の公平さを保つ、というのが良いのでないのかな?と思います。経済状況に応じて金融政策・財政政策を変える……好況時も不況時もどちらか一方に偏る、は好ましくないですよね。

ビジネスの喜びの一部は、自分の始めたことをやり遂げ、重要な目標を達成し、無我夢中で永続的な価値のあるものを構築することにある。利益の追求と個人的な充足感に加えて、実業家は、貸借対照表と損益計算書だけでなく、労働者や広くは地域社会のニーズを元にして決定を下すべきだ

引用:ロックフェラー回顧録127ページ
論文が完成し、博士号を手にし、そのころ大学時代からの付き合いであったマーガレット・マクグラスと結婚した。そして就職先を考えた。親の会社に就職することに興味はなかった。すでに兄のジョン、ネルソン、ローランスが父の会社で働いている。デイヴィッドは友人のコネクションを利用し、公職を希望した。その友人は、ルーズベルト大統領やニューヨーク知事、ニューヨーク市長にまでコネを持っていた。そして、コネの1つであるニューヨーク市長の元で働くことになった。1940年、ニューヨーク市庁舎に登庁し、年棒1ドルで市長秘書として働き始めた。ニューヨーク市長ラガーディアは非常に部下に畏れられる癇癪持ちの男だったが、デイヴィッドが仕事を始めて一カ月後、結婚の予定を伝えると、新婚旅行のための休暇を用意し、レストランやコンサートも手配した。

これは読んでいる私の感想だが、ここまで権威があり、気難しいとされる教授(経済学者)や上司(ニューヨーク市長など)とも関わっているが、それらすべてがデイヴィッドには好意的に対応している。どんな気難しく、地位のある人物でも自分の前では寛大な良い人になる。

ここでデイヴィッドは一年半働いた。


国際情勢も移り変わっていた。フランスはヒトラー率いるドイツの前に陥落し、アメリカはイギリスに武器を供給した。1941年夏には、米国が欧州戦争に加わるか、日本と対立する可能性が出てきた。自国の軍備も増強し、国防費は増大した。国中であらゆる製品工場がフル稼働し始めた。医療施設の不備、戦時産業労働者の住宅難、地元の水や食料供給の負担などで、様々な需要が起き、生産が必要になった。

そんなとき、デイヴィッドのもとにニューヨーク市長とのコネを作ってくれたアンナ(政治指導者にコネクションがある労務広報のアドバイザー)が訪れ、防衛厚生局(防衛省みたいなもの)の副支局長としてのポストを紹介され、デイヴィッドは転職した(社会人になって1年半で防衛厚生局の副支局長になるって、普通では考えられない)。デイヴィッドはニューヨーク州北部の広いエリアを任されることになった。

1941年、太平洋戦争が始まる。日本が真珠湾を爆撃し、日本とアメリカの戦いが始まった。

太平洋戦争で、軍隊に入る


日米開戦後、デイヴィッドは、入隊すべきか迷っていた(志願すれば兵役対象とならなくとも入隊できる)。自分は戦争に関わる(国防の)仕事をしていたので、実際の兵役は免除されるだろうと確信していた。もし国から兵役の指示があっても、自分が頼めば裏から手を廻して兵役を回避することは可能だ。
ドイツの軍事侵攻は、既にオーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、フランスを陥落させていた。そんな時、強い愛国心を持っていたデイヴィッドの母がデイヴィッドに、米国の為に誰もが戦地に赴き、戦うべきだと強く諭してきた。これにデイヴィッドは驚く。行けば命を失うかもしれない戦地に、息子を送ろうとする母の凄まじい愛国心に辟易したのだ。

デイヴィッドは母の言葉をきっかけに妻と話し合い、1942年、陸軍に入隊した。父の力を借りれば将校の地位で入ることも可能だったが、敢えて一兵卒として入隊した。

ガヴァナーズ島、ジェイ駐屯地で基礎訓練が始まった。1つの部屋に何十人もの下士官兵が詰め込まれ、二段ベッドで眠った。基礎訓練はそこそこ順調に続いた。兄弟のなかで、志願して入隊したのはウィンと自分だけだ。ウィンは歩兵隊に入り、太平洋で戦闘に参加し、1945年沖縄沖で乗っていた兵員輸送船が日本の特攻隊に直撃され、重傷を負った。長兄ジョンは1943年、海軍大尉として入隊した。ローランスもまた海軍大尉として入隊。ネルソン(当時、米州問題対策局責任者の地位にいた)は兵役を免除した。

基礎訓練後まもなく伍長に昇進、そして1943年、幹部候補生学校に入り訓練に参加した。そこでの訓練(三か月間の訓練)は軍隊式で厳しかったが、デイヴィッドは適応した。そして、デイヴィッドは少尉に任命される。一兵卒で入隊したにもかかわらず、たった1年で少尉になった。


その後、北アフリカに配属され、少尉としての仕事に奮迅するが、すべて頭脳労働で、実際に戦闘に関わる様なことはなかった(敵の攻撃にさらされる可能性の在る仕事ではなかった)。それどころか、デイヴィッドは軍部内での様々な地位ある人物とのコネクションを作ることに成功していく。軍人ではあるものの、銃を手に敵兵と向かい合うような仕事とは全く別次元の立場で仕事をしている。軍部内でもデイヴィッドに否定的な人間はいない。どんなに地位のある高官でも自分には友好的に接してくれる。偶然にも前線付近に配属されそうになった時も、上官は個別にデイヴィッドには安全な仕事を割り振ってくれている。唯一死の危機を感じたのは、モロッコからオランに行く際、乗っていた飛行機が乱気流に遭遇した時であった(これは戦争関係ないよね)。

北アフリカのスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー社総支配人アンリ・シュヴァリエは、長年アルジェに住んでおり、北アフリカの実業界に幅広いコネを持っていた。(中略)アルフレッド・ポーズは、北アフリカの国立パリ商工銀行支店組織の頭取として大きな勢力を誇る人物で、有力なアラブ人実業家や政治指導者を紹介してくれた。父の旧友であるマッケンジー・キング首相は、わたしのために、在北アフリカ・カナダ上席代表ジョルジュ・ヴェニエ将軍に手紙を書いてくれた。(中略)また、わたしは連合国の外交官やCNLの高官たちとも顔を合わせるようになった。

引用:ロックフェラー回顧録150ページ

これは、あくまで私の想像に過ぎないが、軍人として働くことは構わないが、息子には命にかかわるような場所に赴く任務は与えるな、と、父、または祖父から軍部への指示があったのではないかと思う。どの父親(祖父)でもそれが可能な権力があるなら、そうするんじゃないかな。

1944年からはヨーロッパ(主にフランス)での任務に就く。デイヴィッドはフランス語が出来たので外交官としての仕事を任された。交渉する相手はほとんどが将軍クラスだった。

ニーム、モンペリエ、ペルピャノン、トゥールーズ、ポー、ボルドーなどの県都を訪ね、ド・ゴールに任命された共和国の行政長官たちに会った。どこでも歓迎されたし、現地の政治経済の状況について話してもらうのに、なんの苦労も要らなかった。

引用:ロックフェラー回顧録156ページ
1945年には大尉に昇進する(入隊して3年)。

兵役の善悪について、デイヴィッドは、次のように書いている。

戦争で良い体験をした。当初は当惑したが、すぐに職務に適応し祖国に貢献できた。戦争の日々はかけがえのない訓練と実験の場となり、後年の私の行動(事業活動=ビジネス)に多くの影響を与えた。具体的な目標達成のため、しかるべき立場の人物と人脈を築くことがいかに重要かをすることができた。




取り敢えず、今回はここまで。
次回は、デイヴィッドが、
チェース・ナショナル銀行に就職するところから。




異世界転生を地で行く。






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