諸刃の剣






伴外は、
『車』という名の乗り物を知っているか。

そりゃ、知ってるよ。

僕は思う。
この乗り物……

発明されるべきではなかった、とね。

おいおい。

車のない生活を想像してみろよ。不便なんてもんじゃないぜ?

便利、不便の前に、
車がなければ今日の文明の発展はなかっただろう。
そしてその発展によって救われた命、産まれた命、与えられた数多の幸せが存在することもまた、否定できない。

じゃあ車の何が問題なんだよ?

この乗り物が、人間の能力を超えた乗り物であることが問題なのさ。

これが存在する限り、確実に
死人が、怪我人が出続ける。

文明や経済の発展のためには
彼らの死は必要不可欠だったと割り切るか?

……

車は便利なものだよ。
歩いて1時間以上かかる距離を、10分に短縮してくれる。
一生通して計算するのなら、
いったいどれだけの時間が短縮されるのか、解りゃしない。

そしてそれが大いなる文明の発展、経済の発展をもたらした。






だが。

同時に、交通事故という悲劇が生まれた。

事故に巻き込まれて、大怪我をすれば、動けなくなる。
死んでしまえば、そこで全てが終わる。

車は、何人もの人間に、圧倒的な時間の節約をもたらしたが、その反面、何人かの人間の時間を奪い去り、消し去ったんだ。


……諸刃の剣、ってか。

誰も悲しむことのない車社会があるとすれば、それは運転が完全に自動化され、交通網が完全に管理された未来だけだ。

だがそれが来るのはいつだ?
20年先か? 
30年先か? 
そのあいだにも人は死に続ける。そして、殺し続ける。


何より、これまでにどれだけの人間が死んだ?

……

車が発明された瞬間、
将来的にそれによって悲劇を被る多大な数の人間が、
同時に生まれた。

それは、
予測可能な事実だった。

だがそれでも人間は、車を造り、車に乗った。

なんつーか、ひとりひとりが、もっと交通安全に対しての意識を高めていくしかないよな。







ふっ、ふっふっふ……







何がおかしい?

その発言は、正しく見えるだけで、本質を突いていない。

なぜなら、ほとんどの人は皆、安全には気をつけているからだ。
子供の頃から散々交通安全の教育を受けてきているし、誰だって事故には遭いたくないからね。
加害者になるのも被害者になるのも、まっぴらごめんさ。

だろ?

……

じゃあ、
なんで事故は起こる?

それが、個人の不注意からくるものだとしたら、なぜ、その不注意は起こりうる?

伴外、おまえは、
運転中に、携帯電話をいじる人間の心理が解るか?

ああ、しょっちゅう見かけるよな。ありゃ単に、危機感がないからだろ?

いいや、危機感はある。
事故を起こしたらどうなるか、彼、彼女らの大多数は理解している。

……確かに一部、危険意識の欠落した、脳が溶けているような連中がいるのは知ってるよ。
だが実際に運転中に携帯をいじったことがある人数を考えた場合、皆が皆そうであるとは、考えにくい。

そこを感情のまま全員悪としてしまうのは、思考の放棄だ。




僕は、考えた。


彼らに『ない』ものは、
何だ?


それは、
危機感ではなく、



幸せだ。

……幸せだと?

ああ。
考えてみてくれ。
運転中に危険を冒してまで、なぜ携帯をいじる?
なぜ、危ないと解っているのに、いじってしまう?

楽しさが、刺激が、ほしいからだろう?
または自分の中の、空虚を、苦痛を少しでも埋めたいからだろう?

その人物は、車の運転中でさえも、そういった楽しみや刺激を、欲しているんだよ。茫漠からの脱却を、求めているんだよ。

それだけ、人には幸せというものがない。

家に帰っても、会社に着いても、そこには大した幸せが待っているわけではない。
だから、危険な状態である運転中ですら、僅かでも幸せを、刺激をつかみ取ろうと、携帯をいじる。










……飢えているのさ。

……

逆に、その車で向かっている目的地に、最高の幸せが待っていたとしよう。
そんな時に、わざわざ危険を冒してまで、携帯をいじるか? 



絶対にいじらないね。

むしろ、その目的地まで、いかにして安全に着こうかと、努力するだろうね。

いくら幸せがないとはいえ、
それは結局、個人の問題で、他人は関係ない。
他人に危険を与える可能性のある運転中は、
幸せを求めて、携帯をいじるべきではないだろ?

個人のみの問題、というものは存在しない。
なぜならすべての人は何らかの形で人と関わらなければ生きていけないからだ。良くも悪くもすべての意味でね。






……次は別のケースの話をしようか。

急いでいるとき、
疲れているとき。

この両方のケースも、また同様に不注意を引き起こしやすい。
それでも、世間は言うだろ?

安全第一で、運転しろ。

当たり前のことじゃないか。
急いでいようが、疲れていようが、それで事故を起こして人を轢き殺したら、最悪だ。

そういう状況にある人も、
車を運転する危険性を無視しているわけじゃない。
ちゃんと考えている。
ただ、正常な状態に比べ、その注意力が格段に落ちているだけなんだ。

その、格段に落ちていることが、問題なんだろ?

伴外、おまえは言えるか?

急いでいる人に、急ぐな、と言えるか?
疲れている人に、疲れるな、と言えるか?


人間は、車を運転する社会だけで生きているわけじゃない。

人間は、様々な環境で生きていて、そのうちのひとつが車の運転なのだ。

急がない、疲れない。

これを優先して、その人が仕事をクビになったら?
彼は安全運転をして交通事故を起こさなかったものの、会社はクビになり、明日からどうしよう、という状態になった。

これでも、交通事故を起こしていないから、OKか?

……ほぼ全ての人の中に、
交通安全の気持ちはある。
だけど、それを妨げる要因もある。
人々はそのせめぎ合いの中で、車を運転している。

……こう言いたいわけだな?

そうだ。
安全運転が大事であることは、誰もが解っている。
解っているけれど、実践しきれていない。

その実践しきれていない現実にこそ、注目すべきなんだ。

解っているけれど、実践しきれていないのはなぜだ?
それは、注意力が足りないからだ。

じゃあなぜ、
注意力が足りないのか?
そこまで考えると、
見えてくる。


幸せの欠如。
不幸の追い風。


これらが、当たり前にように見えてくる。
そしてそれらは、交通安全の規則を呼びかけることによっては、解決されない。

加害者の過失を責めることによっても、解決されない。


車の運転は、人の生活の一部だ。故に、それ以外の部分が、車の運転に強い影響を及ぼしてくる。


おまえが言ったように、
人は、みな、そのせめぎ合いの果てに、車を運転している。
人というものは、そういう風にしてしか、車を運転することができないんだ。

人が車に乗る以上、
事故は必ず起きる。

だが、その確率を人は努力によって下げることができる。
まずは、交通安全への意識・規制改革。


そして、もうひとつが、車に乗っていない時間帯での、人生のあり方。

おまえは、この2つめの、
車以外の人生の部分が、
非常に強く車の運転に影響を及ぼしてくるにも関わらず、
それが俎上に上げられることすらなく、
実に疎かになっている、
と言いたいわけだな。

そうだ。






だが、
僕が真に言いたいことは、
違う。





死人が1人でも生まれる可能性がある以上、
そんなものは最初から造られるべきではなかった。







僕が言いたいのは、
ただ、これに尽きる。

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