社会不適合者問題の難しさは【程度】にあった

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社会不適合者、ギリ健問題は難しい


現代には、
様々な社会不適合者がいます。
いえ、昔からいました。
鬱病発達障害も、昔からいました。
例えば鬱病神経衰弱
呼ばれていました。
(名前が付けられていなかっただけで、昔から同じような人はいたんです。社会の進化と共に、多くの人が生きやすくなるために、名前が付けられたわけですね。そうじゃない部分もあるだろうけど)





精神的な理由からくる
色んな社会不適合者

うつ病
低スペック
毒親被害者
発達障害
ADHD(注意欠如多動症)
ASD(自閉スペクトラム症)
HSP
睡眠障害
統合失調症
強迫性障害
解離性障害
双極性障害(躁うつ病)
パーソナリティー障害


★=私が患っているもの、または性質(低スペックやHSPは性質に近いと思う)


たくさんありますね。
これ以外にもたくさんあります。
こうした精神障害精神病
社会不適合者となる問題。

これに、1つ。
大きな問題が、あるのです。
当事者も当事者じゃないかたも、
混乱させ、対応を間違ってしまう、問題。


そう、それは

程度】です。


社会不適合者の中にも、重度、中度、軽度、がある


いわゆる、
軽度中度重度
というもの。
これが外科や内科、身体的な病で
あれば(大方)医者が検査で解りますよね?
例えば、癌のステージがどれくらい進んでいるとか。身体的なものだったら、肉体機能で判別できますし。
しかし、精神疾患性質の場合、
とても難しいのです。





例えば、私のブログをHSPのかたが
3人見てくれたとしましょう。

その3人のHSP
程度」は同じでしょうか?

たまたま同じ「くらい」
ということもあるけど、
大体は違うでしょう。

これが、
程度が違う、ということです。

軽度、中度、重度、なんてのも
大まか過ぎましたね。

じゃあ、最も軽度なものを1として
最重度を10とします。
すると先の3人は、
Aさん=2
Bさん=6
Cさん=10
だったとします
これを正確に判定できる指標などはありません)。






ここで問題が出てきました。
一気に難しくなります。

なぜならそう、
HSP度2の人と
HSP度6の人と
HSP度10の人に対する的確な解答は
それぞれ違ってくる
ワケですから。



例えば私が

HSPゆえに、何をしていても、休日すらもずっと嫌な記憶が頭を離れません。私はそういう人生を36年生きてきました。

このHSP記事を書いたとする。
で、ネットに公開します。
するとこのHSP記事
HSP重度の人も
HSP中度の人も
HSP軽度の人も
見るんです。






そして、
HSP重度の人と
HSP中度の人と
HSP軽度の人では
それぞれ、適切な対応の仕方が違うわけです。
(その方が好ましい結果が期待できる)


なので、一口にHSPとか
発達障害とか、社会不適合者とか
そしてギリギリ健常者とか言っても

その中で
重度、中度、軽度があるし。
正確に言えばもっと細分化されていて
(同じ人なんていないから)

ギリギリ障害者認定されない、ギリギリ健常者の人たち。彼らは自らの劣性と周囲の不理解に日々苦しんで生きています。

この記事に書いたように
500段階に分かれていたり。
いえ、本当は、人の数だけ
順番が付けられる
んですよね。






なので、例えば
社会不適合者の記事を書いても
その記事と(だいたい)同等の程度にある
社会不適合者にしか当て嵌まらず
それ以外には(その記事は)当てはまらない
(ケースが多い)わけ。


難しい問題ですよね^^;
(面倒なので以後は、精神障害の程度
軽度、中度、重度で書きますw)






じゃあ、
重度、中度、軽度、で分けて
主張・アプローチ・治療・対応
すればいいんじゃないかと思うけど
ギリ健、なんて言葉がある様に
それもまた線引きが難しくて。
ギリ健の中にも、軽度ギリ健、中度ギリ健、重度ギリ健があって……^^;)


この辺までは中度、この辺からが重度、とかかなり恣意的な判断が入り混じりそうですよね。私たちの社会では、精神的な障害の程度を判断するのは国が定めた基準のもと医師が判断しますが。まあ、ね。私の率直な感想を言えば、医師個人によって相当ばらつきがあるし(医師によって鬱判定されたりされなかったりなんていくらでも聞く話)、国が定めた基準自体もなんかズレてるし、と思えます(問題の当事者ではない健常者が考えているから)。


とにかく
HSP向けの本とか
生きにくい人の本とか読んでも
それが自分の
大体の「程度」と合致していなければ
あまり役に立たないどころか
場合によっては逆効果なわけです。
(これがとても難しい
例えば中度の人が軽度の対処法である「自分の力だけで何とかする」を選んだ場合、やはりそれではどうにもできず、結果、もっと深刻な重度の状態にもなりかねません。

無理をするより、無理をしない方が、より多く働ける。






重度ならもう
メインは社会福祉に頼る選択
を勧めるのが適切でしょう。
対して、軽度なら、
職場のサポートや転職など、
自分の力で何とかなるかもしれない。
同じカテゴリーでも程度で対策が違ってくる
わけです。

このほか、能力面ではなく、感情面で見た場合に「働きたくない人」と「働きたい人(働きたいけど働けない人)」、にも分かれます。これも、二者とも適切な対応が違ってきます。


また、情報提供者側も悩みます。
例えば、
働きたくない人
HSP中度以上の人
これにフォーカスしてHSP記事を書くと「HSPだけど働きたい人」や「HSP軽度の人」からは、この記事は的確ではない、と不満を持たれたりします。

私は社会不適合者だが、同じ社会不適合者に向けてのアドバイス、というのが極めて難しいのだ。その理由の1つに、今回語っている程度の問題がある。社会不適合者、なんてくくりでは大きすぎて、アドバイスのしようがない。社会不適合者にも様々なタイプ、そしてタイプごとにまた、程度の差があるからだ。


私が考える解決方法


それは、優しい世界を創ること。

結局、どの程度に属しているか
なんて自他ともに判断しにくいわけです。
正確に判定できる指標などないのですから

ネット上で、自分は中度だ、
いやその程度なら軽度だろう、なんて
言い争うのは不毛に見えます。




なので、いわゆる世間的な、
常識的な言葉を敢えて使えば、
全体的に甘くいこう、というのが
私の考えです。





自分で「軽度かな?」って思ったら
それは中度で。
中度かな?」
って思うようなら
重度の前提で行動します。

軽度の人は、そもそも認識さえしてない場合が多いのではないでしょうか(その自己認識できない程度が、軽度だと考えます)。いうなら、ワカコ酒のワカコさんくらいが、軽度の社会不適合者、だと私は見ています。



今の世の中では、厳しい甘い、といった風に捉えられます。
ですが、厳しさ、ってそもそも何のためにあるのでしょう? 【何かしらの目的】が先に在って、それを達成するために、『必要』ならば、厳しさ、が求められるわけです。【厳しい】が先に来るなら……それはただの精神論。妄信的な、狂信的な、厳しさだと考えます(厳しいから、厳しい。)。


そして無駄な厳しさ過度な厳しさは、
無価値どころか害悪にすらなり得ると考えます。

目的達成を阻害する要素にも
なってしまうわけです。




1つ例を出します。例えば、仕事でミスしたら非常に厳しく怒られ、過度な責任を取らされる……となれば、(一定数の人は)恐怖し萎縮し、何より第一に失敗を回避することを優先し、自分の持っている本来の能力が十分に発揮できなくなる。この場合、目的のための厳しさ、であるはずが、厳しさ自体が目的達成の障害となり、所謂本末転倒な状態となる。




逆境を糧に、なんていう少年漫画の設定を地で行くような人もいますが、それを心から望んでいる人の数、となると、決して多くはないはず。




とにかく、
程度線引き曖昧な以上、
全体的に甘くする
という解答を私は提示します。

いわゆる、優しい世界、というやつです。

私はこれが理想論だとは考えていません。この優しい世界を創るのに必要なのは、①十分な資源と供給②みんなの意識、の2つで、はもうあります(日本人の多くが今よりも豊かに暮らせるだけの供給はあります)。なので、問題は主に、ほとんど、なのです。


















みんなで苦しもうゲーム
いい加減やめませんか?( இωஇ )
















一日中こぶしを握っているようなもの。
【学校】と【会社】では難易度が全然違うから。
無理をするより、無理をしない方が、より多く働ける。
常識は、普通の人のためのもの。
私は、声を殺された少年、でした。
1つ目は、普通だけど誰でも鬱病になる経験で鬱病になった人。2つ目は、最初から普通じゃない人。
優しいから損をするのではありません。優しくしてはいけない相手にまで優しくしているから損をするのです。
HSPゆえに、何をしていても、休日すらもずっと嫌な記憶が頭を離れません。私はそういう人生を36年生きてきました。
今の言動は『普通』だったのか? 『変』じゃなかったのか? そんなことをいちいち考えて確認してしまう癖のある方、いませんか?
こんなにも苦しんでいるのに、誰もそのことを分かってくれない。気付いてくれない。そう悩んでいる方へ。私もずっと同じ苦しみを抱えて生きてきました。
生きるために死ぬ。そうやって生きてきた。
鬱は甘え。今日、至る所でそういった言葉を聞きます。果たして、本当に鬱は甘えなのでしょうか? そして、そう考えるに至る理由とは? また鬱病は健常者に理解されるのか? 色々考えていきます。
社会生活を営んでいる以上、社会の常識は大切なことです。でもそれは、自分の命を危険に曝してまで守るものではないと思います。
ギリギリ障害者認定されない、ギリギリ健常者の人たち。彼らは自らの劣性と周囲の不理解に日々苦しんで生きています。








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