社会常識的に正しく生きる

本ページはプロモーションが含まれています









常識的に生きる


現代日本社会生きる
我々いずれかを選ぶことになる。

①社会常識的に正しく死ぬ

②社会常識的に間違って生きる

③社会常識的に正しく生きる
(条件:年収200万以上を稼げる能力を保有する)







3択です。
日本国民全員が
この3つのうちのどれかに入ります。


ちなみに私はです。





これまでは特例枠で【主婦】がありましたが
それも価値観の移り変わり……っていうか
日本の貧国化とともに消えつつあります。





常識では、主婦でもないのに、
モラトリアム終了後、
年収200万稼げていない人
がいたら
その人は
正しく生きていない人間違っている人】に
分類されます。
(仮に正社員でも年収190万とかだったら「えっ?@△@;」ってなりますよね(常識的に考えて、年収190万だとなにかその人に問題が(間違いが)あるんではなかろうか?って思っちゃう))。




この話のポイントは、

④社会常識的に正しく生きる
(努力次第で全員が可能)


存在しないということです。







しかし、④の概念を含めて
社会常識」なのです。

常識、とは何か?

割合ですね。
その社会の中で、最も多くの人
「そう思ってること」が
常識になります。



これは世の常じゃね?
そうじゃなかったことってないはず。

現代日本の常識は如何にして形成されたか?


私は、戦後からの日本の歴史にあると考えます。朝鮮特需に端を発した日本の景気回復からの高度経済成長(最後には資産価値暴騰投機バブル)。とにかく、(バブル崩壊デフレ本格突入(1997年)までは)正しく働いて頑張れば正しく報われた。終身雇用1億総中流。どんな性格人生個性だろうが、多少社会不適合者であろうが、定年まで正社員の部分さえ踏み外さなければ、本当にそこ踏み外さなければ、自分からやめなければ、定型の幸せになれた。社会からの恩恵が十分に受けられた、そんな時代が「あった」。




結婚をし、子供を産み、一戸建てすら建てられるくらい稼げた。それは普通と言われるほとんど多くの人が可能なことであり、決して難易度の高いことではなかった。ガチの障害者以外は死ぬほどの努力をしなくてもそれは可能だった。だからこそ「それ」は普通になった。普通に働いて普通に経済的に豊かになれた。高度経済成長期の労働者が頑張って無かったと言ってるのではなく、「頑張ったら報われた」のです。今はそれに「一定以上能力のある人」という条件が付きます。





この時代の名残、幻影がまだ、今の日本の常識なんだと思います。実際は1997年から(バブル崩壊余波を起因とした)デフレに突入したのに。



親を代表とするようないわゆる大衆、大多数側は、幸せだった頃の日本の幻想にすがりついて、そこから心がずっと離れない、離れられないんです。





私の親の頭の中では、まだ普通にやれば普通に定年まで正社員で働け、奥さんはほとんど専業主婦でいける。それでも一軒家を建てられて、車も夫婦で2台購入できて、それなりに出世して昇給していて、多少仕事ができなくても怠けていても最終的に課長くらいにはなって、子供も二人、頑張れば3人子供できる、あくまでこれが普通の LINE 。そうでない人たちはいるけど、そこは視界(頭)に入らない、または(本能的に)入れない。





今の社会でそれができるのは確実に、社会の中流層以上ぐらいに限定さてきてます。そしてこれは私の親が特別というわけではなく、いやまあ、傾向的にはかなり相当強いと思うんですけど(普通真理教だから)、私と親とどちらに社会が近いかというと、圧倒的に親側に近いんですよね。
私の親の感覚や価値観が、明らかに常識です。

私が1、親が10だとすると、
社会常識の感覚はだいたい8くらいだと。

私の親は超常識的な人間です。

うちの親は、【普通真理教】【労働絶対善】
ですが、
これらがまさに高度成長期の日本を背景に
成り立った常識です。
普通でいれば、そして普通で居るために
(正社員で)働いてさえいれば、
幸せになれた。

という日本の常識です。





これは私の家族、親を見ればすごくわかります。すでに日本の高度経済は終わり、普通をやれば普通に幸せになれる時代は終わり(ここへの言及(社会的なマクロ主張)は記事の趣旨が逸れるので当記事では敢えて避けます)、さらには子供(私)が社会不適合者。明らかに普通を歩めるスペックにない。どう見ても普通じゃない。私の家族で見ても普通は終わっている。


こういった状況になってなお、完全にうちの親の頭の中は、高度経済成長期の普通のままなんです。あの頃から何一つ変わってない。あのころの夢のような日本が見せてくれた夢から、離れられない。社会様の言うとおりにしてさえいれば、大丈夫





もちろん私が非正規であるなど普通じゃないよね?ということは現実に在るんですが、そこは見なかったことにして、なかったことにして、ヴォルデモート空間に送る





そのように思考が自然に働いて、自然にそうなってしまってる。私の親は死ぬまで変わらないでしょう。ほぼ100%変わらないと私は見ています。私から見ればほとんど狂気なんですけど、これが普通常識。そして親だけでなく、このように考える人が多数側。普通の呪いに支配されたまま。少なくとも大多数は、そう。

正しく生きてきて良かったと思えたことがない


私はありません^^;






正しく生きる……
これは現代社会では
正しく正社員として働き続ける」ということなんですが
(それ以外でどう(人間的に)正しかろうが、ここが正しくなければ(常識的には)それらはすべて無価値です)


正しく常識的に生きようとして……
(正しいの定義=定年まで正社員かつ年収200万以上)
良かったと思えたことは
1つもありません。







貯金
貯金はというか
個人金融資産は少しは在りますが
それは正社員だったから貯まったのではなく
実家暮らしで節約したから貯まったのです。






私は正社員時平均して、年収200万ちょっとくらいでした。
アルバイトフルタイム
(フルタイムフリーター)に
毛の生えたような年収です。
【サビ残、どれだけしたでしょう。
時給換算したら……
最低賃金は余裕で下回ります。
別に正社員じゃなくて
アルバイトフルタイム
だった場合でも実家暮らしで節約すれば
この貯金は貯められる
でしょう。



むしろ20代の
正社員労働破壊された心身を勘案すれば
金銭的に見ても
圧倒的にマイナスです。

常識的に、真面目に生きてきて
(32歳までは)
何か良かったことがあったか?
と考えてみたが
マジでない。
可もなく不可もなく、くらいのことか
良くなかったことの2つはあったけど
良かったことは、思い当たりません。


(正社員ならではの)社会人スキルを身に付けられたこととか、仕事上での人との出会いとかは、「悪くはなかったもの」・・・つまり上記の「可もなく不可もなく」に入ってしまいます(ていうか、どうでもいい)。死の恐怖で働かされていたので、終始頭がバグっており、その上で起こった「良いとされること」なんて、意識する余裕がなかったです。








正しく、真面目
そして常識的に
32歳まで生きてきましたが
それで良かったと思えることは
何ひとつなく、
逆に悪かったことは山ほどあります。


「給料」と(社会に対しての)「供給」面で見ても、真面目に生きるより、真面目に生きない(正社員で定年までを無理してやらない)方が、人生全体で考えたら・・・どちらも後者が多くなっていたと思います(多分圧倒的に)。




もちろん
悪かったこと
心身を破壊されたこと、です。


(これをカバーできるメリットって、そうそうないな…)

常識的に正しく生きることは、愚かなのか?


それは人によって違います。
まだ今の世の中は、普通の人なら
(定年まで、ほぼ継続して年収200万以上稼ぐ能力があれば=これが普通の人
常識的に正しく生きた方がだと、賢いと感じます。

(これは、社会(国家)の「貧困度」(国際的な相対性を含む)や「拝金度」によって変わってきます。これらが深刻化すると普通の人ですら真面目に生きることが報われなくなってくるでしょう)

普通以下の人、
社会不適合者
はどうなのか?
と考えると(才能のある人、運のある人、希死念慮などの)例外を除き
愚かだ(賢くない)、と私は考えます。




世の中、常識的に生きる
ことが大事だとされています。

しかしその「常識」は

「普通の能力を持った人」
基準に作られているもの


だということを、
忘れないでほしい。





常識的な能力を持っていない人は
常識には救われないし
常識的に生きていても報われない
常識で生きていたら
最低限度の生活ができず、それどころか
さえあり得る)



















SNSフォローボタン

フォローする

シェアする




error: Content is protected !!