世の中では一般的に、
人のせいにするな。
周りのせいにするな。
社会のせいにするな。
親のせいにするな。
といった風に、物事を自分ではない何かのせいにすることは、良くないこととされています。
しかし、
私はこう主張します。
何かのせいであることは、
どうしようもなく何かのせいである、と。
Contents
~のせいにする、とはどういう意味?
~のせい の せい は所為と書きます。
《「所為」の音「しょい」の音変化か》上の言葉を受け、それが原因・理由であることを表す。「年の所為か疲れやすい」「人の所為にする」「気の所為」
goo辞書
つまり、~のせいだ、
ということは、~に原因がある、という意味ですね。
人のせいでしかないことは、人のせいである
物事には、原因があります。
原因がある、つまり物事は何かのせいによって起きているわけですよね。
この何か、とは、
自分か、
自分以外の存在、
のいずれかです。
しかし実際には原因がいずれか1つに限られることはほとんどなく、大体の原因は、自分のせいである要素と他人のせいである要素が入り交じっているわけですね。
だから
何%かは自分のせいで
何%かは他人のせいなんです。
これをしっかりと見極めることが大事です。
例えば1つの問題があったとして。
その問題は、
どういう原因たちによって問題となっているのか。
それをしっかり考えなければなりません。
自分が原因である部分。
自分以外のものが原因である部分。
それらをしっかりと認識した上で、
対策を取ることが重要です。
はい。
対策を取る、んです。
何かのせいにするのはいいんです。
でもそこでそれを終わらせるのではなく、その後それにどう対処していくかということが重要なんですね。
例えば私の場合、こうなったのは親のせいか、と言われたら、親のせい、である部分はもちろんかなりあります。ただ、それはそれと認識した上で、もうそれ自体は過去のことだから今更どうしようもないので、これから出来ることをやっていくしかない。
というわけです。
自分の原因である、つまり自分のせいであるところは、もちろん自分が直すべきなのですが、自分以外に原因がある、誰かのせいであるところは、自分では直すことができません。ですからそれはその誰かに直してもらうことが一番なのですが、得てしてそれは不可能であることが多いため、それをどうするかも自分で考えて行動していくしかないんです。
この行動は、物事をすべて自分のせいにして、自分の中の何かを改善することとは似ているようで、全く違います。他者が間違っている、他者に原因がある、と判断した上で、それを自分の中でどう処理していくか、ということなのですから。
すべて他人のせい→×
自分のせいであるところは自分のせい、他人のせいであるところは他人のせい→〇
そして、自分のせいであることも、他人のせいであることも区別なく改善する努力をする。
ということですね。
~のせい、にしている対象との力関係を見る
~のせいにする、ということは、~に原因がある、ということなのですが、これを見極めるのがまた難しいわけですよね。
どこに原因があるか判らない。
どれくらいの比率で自分と相手とに原因があるのか判らない。
このような時、いちばん頭を使わず導き出せる原因が、自分の中に原因がある(自分が原因である比率が最も高いと思い込む)、つまり自分のせいにする、ということなのですが
……ちょっと待って下さい。
例えば、
次のような場合。
そう、原因として考えられる対象が
自分よりも圧倒的に力を持っている場合。
これはもう
その対象のせいである割合が非常に高い
と言えるわけです。
なぜかというと、それらは人の環境を左右してしまう力を有しているものであり、人は環境に左右されてしまう生き物だから、です。
例えば、よく言われる、
『国のせいにするな』。
『親のせいにするな』。
これです。
これは明らかにおかしい。
なぜなら、国は個人に比べて圧倒的な権力を持ち、我々の生活に多大な影響を与えてきますし、親もまた子供に対して、その人格の大半を構築できるほどの強烈な影響力を持っているからです。こういう自分と比べて圧倒的に強い存在からは当然のように多大な影響を受けるので、その存在のせいでしかない(その割合がほとんどである)というのは、
純然たる事実なんですよ。
これらの対象が自分に不利益を及ぼしたことを嘆いた人に向かって、国のせいにするな、親のせいにするな、というのは、ただの精神論です。
物事の本質をまるで見ていない行為です。
国のせいであることは、国のせい。
親のせいであることは、親のせい。
これでいいんです。
こういった明らかに誰かのせいである(その割合の大きい)ことを自分のせい、だと考えるのは、一見前を向いているように見えて、実際は事実から目を背けているわけですね。
そう。
人のせいにしない、
というのは一見前向きな言葉に聞こえます。
でも前を向いた言葉ではないんです。
これは両目を塞いだ状態で口から出る言葉なんです。
他人のせいである。他人に原因がある。という問題の本質(現実)から目を背け、あるはずのない自分の中の落ち度を作ってしまうんです。そうしてしまうことにより、問題自体が見えなくなり、正しい解決策が存在しなくなります。
そうなると問題を解決できずに心が折れてしまうか、間違った解答を正当としてしまうかしか手段がなくなる。まあ、そうやって今の世の中にはそのまま間違った解答が正当になってしまっているものがたくさんあるんですけどね。
前を向きたいのなら、まず問題がどこにあるのかをしっかりと見極めることが重要なんです。
国家に問題がある。
親に問題がある。
自分は悪くない。
それでいいんです。
それは、それでいいんです。
でも、さっきも言ったように現実を変えるためにはそれだけで終わらさずに、それなんとかしていかなければならない。
いや、しなきゃいけないってことはないですが、しなければ、大抵状況は変わらない。
このように考えることが、
正しく前を向き、問題と向き合うという行為
ではないでしょうか。
いえ、本来はね、国のせいであることは、国がどうにかすべきことです。
親のせいであることも、親がどうにかすべきことです。
というか、すべきだったことです。
~のせい、になってしまう前、にね。
なぜ人のせいにしてはいけないのか
そもそも、
なぜ物事を人のせいにしてはいけないのか?
これはですね、問題を解決するに当たって、人のせいにするよりも自分のせいにした方が、『問題が解決しやすいから』です。
自分を変えるか、人を変えるかだったら、間違いなく自分を変える方が簡単なんですよね。
だからみんな、原因が他人にあっても、自分に原因がある、自分のせいだ、と思って自分を変えようとするんです。
問題の本質を取り違えたままでね。
で、社会全体としてもうそんな感じになってしまっているから、悩んでいる人に助言する人もまたお決まりのように、「人のせいにするな」と言うんですよ。
人のせいにするな、が強者の理論になる
この「人のせいにするな」の台詞が吐き出される状況の一つとして、これが強者の理論である場合があります。
まず物事はですね、さっきも書いたように、
自分のせいであることが、紛れもなく自分のせいであるように、
誰かのせいであることも、紛れもなく誰かのせいなんです。
でもここに人間関係の強弱が入り込むことによって、どちらか一方が正当化されるんですね。
そして強い立場に立った者が弱い立場の者に問題を押し付けた上で、こう言うんです。
人のせいにするな。
この時に吐き出されたこの言葉の本質は、
オレにとって都合良くあれ、です。
人のせいにするな。つまり自分のせいにしろ。原因は自分にあると考えろ。自分の中の問題を正し、自分が変われ。
その変わった姿は……
オレにとって都合の良い姿だ。
例えばあなたの近くに、何をしても何をされても自分のせいだと思い、その都度自分の中の何かを改善していってくれる人がいたとしたら?
ものすごく都合が良くないですか?
あなたはなにも変わらないまま、相手だけがひたすら「あなたにとって都合の良いように」変わり続けてくれるんですよ。
最高です。
でもみんな考え方は違いますから、そんな都合のいい人いないですよね。
じゃあ、簡単な話、
自分よりも弱い奴を、そうしてしまえばいいんですよ。
自分に原因がある、自分のせいだ、
と考えてくれた方が、強者にとっては都合が良いんです。
強者はそもそも、変わろうとして悩みません。悩んでいるのは、あなたが弱者だからです。強者は悩まないんです。変わらなくていいんです。他人を悩ませる側、他人を(自分にとって都合の良い人間に)変わらせる側、に回れますから。
強者、というか、人ですね。
人は自分自身が心の底から変わろうと思ったとき以外、自発的に変わろうなんて思わないんです。そしてそんなことは滅多に起こりません。今のままの自分で他者を(出来るだけ好きなように)支配して生きていきたい、というのが大多数の人間の本音ではないでしょうか。
一方で、変わろう、変わりたい、変わらなければ、と思う人は多くいますが、これは殆どの場合、変わることを必要に迫られて変わらざるを得ない状況に追い込まれているんですよね。なんのために? そんなことはもちろん、他人(強者)にとって都合の良い人間に変わるため、です。変わろうとしているのではなく、変わらされている、んですね。強制的に。
基本的に、人間という生き物は、自分の意思を押し通したい生き物であり、それをするためなら、正しさの定義くらい平気で書き換えるわけです。
自分が変われば周りも変わる?
そうとは限りません。
もしあなたが、他人のせいでしかないことを自分のせいにして、無理に自分を変えたのだとしたら、それは他人にとって都合の良い自分になっただけです。あなたが利用しやすくなったのだから、あなたから見た他人も、多少は変わったように見えるでしょう。ですがもちろん、
他人は本質的には何一つ変わっていません。
人のせいにするな! はかっこいい台詞
人のせいにするな、
っていう言葉はかっこいいですよね。
とてもカッコイイ台詞なんです。
だからもう、これを言っときゃ正解! みたいな風潮あるんですよ。この言葉。
でも、かっこいいだけなんです。この言葉って。
そして、よくよく考えてみれば、
かっこよくもなんともないんです。
非常に知性に欠けた言葉だと思います。
なぜなら、何かのせいであることは、何かのせいでしかないのだから。
それがそのせいである、と主張すること自体には、何の問題もない。
それは、正当な主張だと私は考えます。
さて、余談になりますが少年漫画の主人公って、大体努力至上主義みたいな感じじゃないですか。
その漫画の主人公がね、泣き言言って他人のせいにしているキャラに、
「人のせいにするな!」って説教してるの見たら、私は嫌な気分になります。
作為的にその演出を仕組んでいないのであれば(主人公が言う時点で作為的でないだろうけど)作者も好きじゃなくなります。
でも、
「そうだな、その通りだ。で、これからおまえはどうする?」
って言ってたら、
ちょっとはカッコイイと思います。
その作者も、好きになるかもしれませんね^-^
このブログを書いているのは、こんな人↓です。