市場競争に規制(規則・ルール)が
必要である、と私は考える。
適度な規制、が。
自由な世の中とは
市場経済
自由至上主義
(リバタリアニズム)
自由放任主義
(レッセフェール)
市場原理主義
新自由主義
(ネオリベラル)
などでは、規制を可能な限り撤廃し、
市場に任せた方が、
自由競争、適者生存、
価値無きものの淘汰、
市場の自動調整作用が機能し、
結果、社会の富が最大化する、
とされるが、
私は
規制は必要、と考える。
無法地帯
まず、完全に自由な社会とは
無法地帯、
北斗の拳の世界を指す。
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ルールは無い。
暴力あり、何でもあり、だ。
何をしても勝てばいい。
この先に何があるかと言うと、
独裁社会がある。
ラオウのような最強の暴力を持った人間が
暴力的な人間をまとめ、
それ以外の人間を暴力で支配する。

(でもその最強の人間もフリーザみたいに強いわけではないため、不意を突かれたり、後ろから襲われたら簡単にやられる。よって弑逆が繰り返され、不安定な社会になる(支配者側も王権神授とか唱えて色々工夫してた))
夜警国家
次は、新自由主義者、
自由放任主義者が理想とする
夜警国家の社会を考えてみよう。
この社会は「暴力以外は何でもアリ」だ。
※もちろん、暴力が消えたわけではなく、暴力禁止のルールを破れば暴力が行使されます(こうでもしないと人はルールを守らない(洗脳・マイコン除く))
暴力だけをルール(暴力)で取り締まる。
警察機関で、治安維持。
軍隊で他国(他民族)からの侵略に対処。
これ以外はすべて自由な社会だ。
+最低限のインフラ整備は必要、とする論者も多い
この夜警国家が
無法地帯よりも現実的なので、
こちらを前提に考えてみよう。
強者が規制を作り始める
夜警国家……
「暴力以外は何でもアリ」
の社会だと、
何が起こるか?
これが本記事の
市場競争に規制が必要な理由
の回答となるワケだが、
のだ。
自分に都合のいい規制(ルール)を。
暴力以外は何でもアリのルール
に勝ち抜いた勝者は
今の勝者としての地位を盤石にするため、
社会の規則を作り始める。
自由、と聞くと
何となく良いイメージを
持ってしまいがちだが、
自由→我々の自由、ではない。
自由→強者の自由、だ。
=弱者からすれば(強者による)規制
強者による規制という意味では、
国家による規制と同じだ。
(究極、資本家に支配されるか(資本家による規制)国家に支配されるか(国家による規制)の違いだけで、強者による支配(規制)という意味で同質と言える=実質、社会主義状態)

自由競争の先に在るのは、
強者(自由競争の勝者)による
管理社会(規制)だ。
自分たちの権力が最大化に近づく、
自分たちに都合のいい社会=
自分たちが自由な社会、を指す。
✕我々みんなの自由
しかしこれをこのまま言うと
大衆の反感を買うので
(自己利益が阻害されるので)、
自分たちが自由な社会
を
と言い換える。

公正な市場競争には、規制が必要
公正な市場競争は
生産性を高め、社会を豊かにするが、
公正な市場競争を成すために必要なものが
適度な規制、だ。
100%公正は実現不可能なので、100%にどれだけ近づけるか、が目標
普通に自由競争をやっていけば
不公平な競争(ある意味自由な競争)となる。
仮に1回目、五分五分の条件で競争が行われて
勝者(強者)と敗者(弱者)が出たとして、
この時点で勝者は敗者よりも力が勝る……
勝者は敗者より
多くの決定権を有している。
よって2回目の勝負は
フィフティフィフティで行われない。
1回目の勝者が有利な土俵での勝負となる。
この傾向は勝負が繰り返されるほど
顕著になっていく。

具体的には、
ライバル企業の関係から
元請け下請け(主従)の関係に変わる。
更に勝ち幅が大きな場合、
儲けた巨額のマネーを使って政治に介入できる
(回転ドア・レントシーキング)
※日本の経団連、米国のウォール街・グローバル企業、最近の話ではトランプ政権に近づくイーロンマスク氏など、実際に行われています。目的は言わずもがな、「支配者」になるため。「支配者」で居続けるため。


こうした行為に、市場(ほかの企業)では(一度決定的な差がついてしまったら)太刀打ちできないため、(民意を得た)国家・政府が規制介入する、わけです。
人間は欲望の生き物ゆえ、
そうするのが自然、と見る。
優位を元に、更に勝ちたくなる。
→敗者の下克上が起きぬよう
自分に有利な規制を設ける。

つまり、
自由にさせた先には、
(自由競争の勝者による)
規制があるのだ。
自由市場の勝者は、自由という理念、信念、価値観を標榜しているから、自らが支配的立場を手に入れた後も、我々に自由な社会を提供してくれるはずだ。←これは、願望と憶測に過ぎない。市場勝者が支配的な立場を手に入れた後、他者に自分優位な規制を強いることは十分に考えられるし、何ならその証左が現代社会の有様だ。
そもそも、自由な社会とは、
具体的にどういう社会なのか?
ドラゴンボールで、ピッコロ大魔王は世界を統治している国王を倒した後、自らが王になり、「ピッコロ大魔王が頂点だが、それ以外の全員は自由・法律はない」という社会を作ると宣言した。
#5月9日 #ピッコロ記念日
エイジ753年 – キングキャッスルを陥落させたピッコロ大魔王が世界の国王の王座を奪う。警察などの廃止・悪人たちの自由を表明し、この日を「ピッコロ記念日」として毎年5月9日に年1回のくじ引きで43地区をひとつずつ破壊することを決定(Wikipediaより) https://t.co/GTa6KCy639— ぼびらこたまpart3 (@part329310623) May 9, 2024
これにより何が起こるかと言えば、物理的暴力を持つ者たちによる略奪だ。
仮にそこを「暴力だけはダメ」の夜警国家まで縛ったとしても、直接的な暴力以外なら何をしても自由(規制がない)ということで、マネーを持つ者が好き放題できる世の中(今の世の中w)になる。例えば現代日本で社会問題になっているような、パワハラ、カスハラ、モンスタークレーマーといった、顧客(金)の立場を利用するワガママが横行する。暴力行為ではないため、それは規制されないからだ。

自由のジレンマ
人間が二人以上で生きる限り
両者にとって
完全な自由は存在しない。
自分の自由が
どこかの地点で
他者の自由を
脅かし始める。
なので折衷点は、
疎外しない範囲内での
自己の自由」
と考えられる。
「政治的に保障された自由」は、長い歴史の中で人間が確保した自由といえるでしょう。
引用:「freedom」と「liberty」の 違いとは?自由を表す英語表現

「自由」「規制」の二者択一ではなく、時と場合によって最適な落としどころを見つける。市場経済(利己心)と適切な規制の双方によって、現代文明社会が在る、と私は見る。

他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての行動は基本的に自由であると主張する
引用:リバタリアニズム
「各人が望む全ての行動は基本的に自由」は簡単に「他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害」する。
代表例は、自由放任主義時代の資本家。

ここに歯止めをかけるのが、アダム・スミスが(国富論とは別の)道徳感情論で提唱するモラル…………コレを具現化した規制、である(個人のモラルだけでは、極めて脆弱)。

「他者の自由を阻害しない限り」とか「モラルが大事」とかは、単にそれを主張するだけでは曖昧で脆弱。あってないようなものです。そんなの無視してしまえば終わりなので^^;その原型をちゃんと具現化→法定化し、規制する必要がある。

自由な社会とは
我々(一般人)に
とって自由な社会、ではない。
(我々が常々自由、と感じているものの
正体は、実は適度な規制、である)
だからこそ、
その社会の成員(構成員)による、
ルール決め(規制)が必要なのだ。
人が集まって生活する以上、
どのみち、規制は作られる。
その規制が
「市場の勝者が決めたもの」か
「成員みんなで決めたもの」なら
後者の方がみんなにとって好ましいと見る。





