宗教が行われている村で生きていくためには、自分もまたある程度宗教をしなければならない

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宗教が行われている村で生きていくためには、自分もまたある程度宗教をしなければならない。

宗教
行われている村で生きていくためには、
自分もまたある程度
宗教をしなければならない

酷く虚しい言葉です。


ベルセルクロストチルドレンの章にジルという少女が出てきます。 ジルが暮らしている村は 暗鬱で、父親は到底 尊敬できない人間であり またジルに乱暴を働く野蛮な村人もいて心が休まる場所ではありません。ジルはそこから抜け出したいと思って 妖精の国(仮)に行きたがり、または ガッツの旅について行きたがります。 しかし最終的には自分が暮らせるのは その村だということを思い知り その村で戦って生きていくことを選びました。 

しかし
その村で闘う(生きる)となれば、
村の宗教は無視できません。







あれ良い話風にしめてるけど、あの後悲惨ですよね。ジルの現実は何も変わってないンだから。父親はアレのまま何も変わってないし、村の野蛮なおじさんにも再び襲われるかもしれません。その時それに対抗できる物理的な力を(シールケみたいに魔法が使えるわけでもない)ジルは持ってないのです。

あずみ という漫画があります。 そこで 雪国編の話があって がっちという子供とがっちの妹が出てくるんですけれども その雪国では神と称えられていた(サイコパスの) 双子がいたのですが、その双子をあずみが消してしまったためにあずみは その村で鬼娘と言われてしまいます。 しかし ガッチは双子の方こそが悪魔であることを知っていて あずみが本当はどういった人なのかということも知っています。



だけど ガッチもまたこの村で生きていくしかないので、村の人と同じように双子を神と崇め、あずみを鬼 扱い しなければならないという……数の暴力宗教に沿わないといけない。

その村で闘う(生きる)となれば、
村の宗教は無視できません。







特定の
集団の中で生きていく上では
自分の心に背くことも
しなければならない

それが
お笑いみたいな宗教であったとしても

どんなに馬鹿らしくとも
どんなにっていたとしても。






だけど
正しくはないよね。
そこにあるのは 

「ただにならっている」
っていう現実だけ。

正しいことをする、んじゃない。正しいことにする、んだ。

数が作る(信仰する)
システム設定
個人では逆らえないだけ


設定を変えるよりも
設定に倣って(社会適合者になって)
生きた方が効率が良い、という

考えれば考えるほど
虚しい





それでもそれを
正しいと言ってしまったら
「人」として
完全に終わってしまう気がする。

かつて、この話を殆ど社会人経験のない友人に見せたとき、その人はとても聡明な人であったにも関わらず、これを見て「新興宗教の問題点について問うた話ですね」と言った。……ああ、そう見えたのか。でも、違うんだ。これはこの国の、【株式会社の話】なんだ。

だから正しいではなく 

せめて

虚しいと言いたい。

世の中地獄、を受け入れた人々が、その地獄を補強、補完していく……。( இωஇ )ロストダムピエン






2016年の初心に還って。
希望の話ではなく、オワコンの話。
当ブログオススメ記事を紹介します。


頑張るんじゃなく、がむばるくらいでちょうどいい。
限界中年として、頑張って生きています。
ほぼ毎日、カップラーメンを(仕事がある日の)昼食に食べてみた。
今の会社で、2年間働き続けました。

人はなぜ生きるのか?は難しい命題です。しかし、人はなぜ働くのか?は簡単で、もう既に完全解答できます。





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