みなさんは、
心を持っていますか?
私は、ほとんど
心を持っていません。
心というものは、
人にとって命の次に大切なもの。
観念的に言えば、命そのもの。
その心を殺すということは。
余程のことですよね。
しかし、
私は殺しました。
自分の心を、殺しました。
なぜかというと、
(少なくとも私の中では)
そうしなければ、
生きていけないから、
です。
現在、
私の中にある心のほとんどは、
他者、とそして或いは自分自身、によって
ほぼ殺されてしまっています。
Contents
正しい心の殺し方
心の殺し方は、
まず、自分の心を殺してくるようなものと深く、また、長く関りを持つこと。
そして、
その存在から自分の心を守らないこと。
この2つの過程を踏むだけで、
心は死にます。
当たり前のように、
死んでいきます。
心を殺してくるもの、とは?
これはですね、
考え方が異なる人間に、
自分の考えを押し付けてくる人間、です。
この人間、
というのは個人である場合もありますし、
複数、または組織丸ごと、
そして、
私のような社会不適合者に至っては、
社会全体、であるときもあります。
こういった存在とは、
・闘う
・両者の納得できるところで無理矢理折り合いをつける(難易度超激ムズ)
などしていかなければいけないわけですが、
それをせずに、
それができずに、
自分の意見や感情を抑えつけて
その自分とは異なった考えや価値観を持つ(自分としては受け入れられない)存在の
考えや価値観を無理やり受け入れ続けていると、
心が疲弊しいき、やがては死にます。
心が死ぬと。
自分が一体どういう人間なのかが
解らなくなってきます。
自分の意思? 感情?
それを持つのであれば、
最初にすることは、
その存在への反抗、または拒絶です。
でもそれが不可能なケースがありますよね。
その多くは力関係です。
力関係上、どうしても従わざるを得ない。
受け入れざるを得ない。
場合。
上司と部下。
客と店員。
取引先と営業マン。
親子。兄弟。先輩。クラスメイト。
結婚相手の親。親戚。
旦那。嫁。
その他、苦手とする様々な対象。
自分の生命を維持するために、
反抗、拒絶をすることができない相手。
そういう相手とぶち当たってしまい、
尚且つそれが避けられない、
という状況になった時、心は死んでしまいます(注1)。
繰り返しになりますが、
この相手っつーのは、個人であったり、
集団(社会)であったりもします。
例えば、
多くの人が経験済みである就職活動の時に、
我々は社会人として恥ずかしくない人間であるために自分を押し殺しますよね?
笑顔で快活に、
「御社のために!
社会のために!
そして!
自分自身の成長のために!」
とか言います。
半ばマジにそう思える人とか
割り切れる人はいいですが。
私はアレ、
まるで受け付けなかったし、
あそこだけ割り切れるほど器用でもなかった。
苦痛でしょうがなかった。
ここでも書きましたが
社会に貢献できる素晴らしい精神、というのは
自分自身が幸福である、
という前提のもとに成り立つものです。
当時の私は(今もそうですが)全然幸せなんかじゃなかったし。他人(社会)に奉仕(貢献)できるような余裕もなかった。
他人は幸せにできません。
この文言は、悪いことをしても構わない理由にはなりません。
やらない善より、やる偽善。しかし、人々を不幸(犠牲)にして金を得た者(団体)が、名誉(その先にある更なる利益)の為にその金で別の不幸な人たちを救済することもまた、『やらない善より、やる偽善』、として単純に賞賛されがちだ。私は彼らを一切賞賛しない。
— くろやぎ (@semirita1000) 2018年2月17日
だから私は。
心を殺しながらやるしかなかった。
対処法がないわけではないが……
もちろんね。
対処法がないわけではありません。
逃げる(運が必要)。
上手く立ち回る(能力が必要)。
考え方を変える(性格が必要)。
などで、
心が死ぬのを避けることも
場合(人)によっては可能なんです。
しかし、これは簡単なことではないし
誰にでも出来ることでもない。
逃げるとしても、逃げた先がどうなのか?
逃げる、ということは自分自身は何も変わっていないわけなので、
逃げた先の状況にまた左右されます。
果たして逃げた先の状況は今いる状況よりマシなのか?
これは、運によります。
上手く立ち回る。
考え方を変える。
これらには、
本人の能力と性格が関わってきます。
私はこれまで生きてきて、
それなりの数の、
「他人に自分の考えや思想を押し付ける人間」を見てきました。
また同時に、
「押し付けられる側ではあるが、そういった人たちと上手くやっている人間」も
かなりの数、見てきました。
いわゆる、
距離の取り方がとても上手い人たちですね。
難しい人間とでも、上手く付き合っていける能力をもった、そういう性格をした、人たち。
でも私にはそれは無理でした。
なにせ、
まずやろうと思わないんです。
他人に自分の意見を押し付けてくる人間なんて
私の中では、もう下の下。
蛇蠍の如く唾棄すべき人間。
生理的嫌悪どころの騒ぎではなく、
むしろ細胞レベルで受け付けない。
そこまで忌避している対象を、
好きになる?
または
認めて受け入れる?
到底できませんでした。
どれだけ力関係を盾に押し付けられようが、意に添わぬ価値観を心から受け入れることなんてできないし、また部分的に割り切って受け入れるような器用さも、私にはなかったわけです。
「押し付けられる側ではあるが、そういった人たちと上手くやっている人間」もある意味、すっげーなぁ、と感心する反面、ダッセーなぁ、と思ってた。
本心ではね。
望まぬ他人の意に倣う。
という行為を、
心が拒絶しているんですよね。
でも、それをしなきゃいけない。
生きるために。
ってなった時に、
生きていくことを理由に
心を入れ替えて
それを迎合できるかと言われたら、
無理ですよ。
ロボットじゃないんですから。
そんなプログラムを書き換えるようにはできない。
じゃあもう方法は1つしかないんです。
自分の意思。
自分の考え。
これを押し殺して、
他人の意見を受け入れるんです。
そうするしかない。
しかし、そうすると……
この弊害として、
心が死んでいくわけです。
変われと言われても。
私は変われませんでした。
なぜなら、
変われと言われた先は、私の中では間違っているし、最低だし、クソにしか見えないし、何よりそれに何一つ魅力を感じなかったからです(恐らくガチガチの『まともな人』から見れば、私は真性のクソなんでしょう)。
だから心を殺して
無理矢理やるしかなかった。
(注1)これら人的要素の他に、逃れられない状況下で行われる繰り返される苦痛(多くの場合が過剰な労働)でも心は死にます。
自分のせいであるところも
あると思います。
それが、
私の中にある、
自己犠牲の精神です。
これはどういうものかというと、
自分で自分を追い込むんですね。
仕事を続けていくためには、
心を殺すしかない。
そうするしかない、
そうするしかない、
そうするしかないんだ!」
みたいに。
そうやって、
私は私自身をかなり追い込み、
痛めつけてきた。
仕方ない、仕方ない、仕方ない、
こうしなきゃ生きていけないんだ、
と自分に何度も言い聞かせて。
心はなかなか死なない
10年以上かけて
自分の心を殺してきたから解かることがあるんですけど。
心って、なかなか死なないんです。
自分の感情を殺そう、殺そう、としてみても。
これでもかっていうくらい、
しぶとく悲鳴を上げ続けるんですよ。
私の心もね。
なかなか
なかなか
死にませんでした。
上記にあるように、
自分の感情を押し殺して
自分が受け入れられない他者の意向を受け入れ続けても
1年や2年じゃ死なないんですよ。
もちろん、
段階的には、確実に死んでいく。
大きく欠落はしていく。
でも、ほぼ完全に死ぬまでには
10年の月日がかかったんですよね。
なので、私自身にも、
考えが甘いところがあった。
それは、自分の心が意外にも丈夫なので、
どれだけ痛めつけても(正確には痛めつけてくる存在から守らなくても)
どこかで死なないと。
本当に死ぬまでいくことは、ないんだと(つまり感情が消えてしまうような状態にはならないだろう、と)。
思ってた。
私は二十歳くらいから
自分の感情より社会の正しさを優先させて
ずっと心を殺して生きてきました。
自分の感情をめちゃくちゃに
痛めつけながら生きてきた。
でも、どこかでね。
絶対死なないだろって。
思ってた。
殺す覚悟はあったのに。
二十歳の夏に。
私は自分の心を殺す覚悟をしたんですよ(この背景は、いずれ過去記事で書きますので気長に待ってください^^;)。
なぜかと言うと、
このまま行ったら明らかに働けないから。
精神面。
スペック面。
どちらも
普通に社会に出て働いていく水準に
全く達していない。
今からメイジキメラが出現するエリアに放り出されるのに、
自分のステータスは
レベル3でこん棒と布の服しか装備していないような感じ。
明らかに社会不適合者であり、またまともに仕事をこなしていくようなスペックを持ち合わせていない自分という人間が(このままでは確実に卒業後ニート引きこもりになるレベルでした)それでもこの社会の普通に併せて普通に労働し給与を得て、生きていくために。
私は自分の心を殺す覚悟をした。
なのに。
なのにですよ?
死なないだろ、ってどこかで思ってた。
だって、
フツーに考えたらさ。
今生きている心が死ぬって想像できますか?
できないはず。
私もできなかった。
でも
ずっと殺し続けていると
心は、本当に死んだ。
心というものは。
殺し続けてもなかなか死なないけど、
それでもずっと殺し続けていると
本当に死んでしまうんです。
最初の頃というか、
最初の何年かは。
殺しても殺しても
心は悲鳴を上げるんです。
痛い、痛い、苦しい、苦しい、
ってね。
でもあるとき
悲鳴が聞こえなくなる。
悲鳴を上げる部分が、
じわじわと死に絶えていく。
心を殺し続ければ、
心は本当に死ぬんです。
これは、別の観点から見れば、『精神が病む』ということです。心が健康な状態からすれば、心が病んだ状態というのは、想像がつかないんですよね。私もかつては想像がつきませんでした。それくらい、別世界の話だった。しかし、こうした心を殺すような行為を長年に渡ってし続けていると、その想像すらつかなかった『精神が病む』状態まで本当に行き着いてしまうのです。
苦痛を消すために、心を殺す
生きていくために存在する、
味わわざる得ない耐えがたき苦痛。
これを感じなくするために、
心を殺したわけですが。
この方法には弊害があって。
苦痛だけを殺す、
っていうことができないんですよね。
むしろ。
苦痛よりも。
楽しい、とか。
嬉しい、とかいう
プラスの感情の方が、早く、そして大きく死んでしまう。
簡単に言えば、
1の苦痛を消すために、
10の感情を消さなければならないわけです。
結果的に多くの苦痛を消せ(感じなくできた)としても、その時には多くのプラスの感情も消えているわけです。
でも、これは当然
最初から予測がつきますよね。
なので
私も分かっていてやりました。
やるしかなかったので。
そして、どれだけ感情を殺しても苦痛はしぶとく残っているという。人間という生き物は実にパンデモニウムワロス。
心は一度死ぬともう生き返らない
で。
一度死んじゃうところまで殺すと。
もう境遇を変えても(例えば仕事辞めても)
考え方を変えても(変えようとしても)
生き返ってきません。
仕事に追われる毎日で精神的に余裕がなくなり、一度仕事を辞めて一人でじっくり人生について考えてみたくなる時がある。しかしそれをやるなら思い切って精神が病んでいないうちにやるべきだ。病んでから仕事を辞め、その後どれだけ考える時間を作っても、その時には考えること自体が困難になっている。
— くろやぎ (@semirita1000) 2018年3月6日
例えば鬱っぽくなってて
仕事を辞めて
辞めたら精神的に回復する、
また少し休んだら回復してきた。
という人は
心は傷ついていたものの、
まだ死んではいない状態なんです。
でも死んじゃうと。
テンションが。
気分が。
精神が。
浮上してこない。
図で書けばこんな感じです。
苦痛がなくなっても、
DEAD LINEから上がってこなくなるんですね。
心を殺すことで、社会不適合者でも労働が可能となる
この方法はお勧めしないので。
いや、
オススメどころか絶対やらないでください。
完全なる社会不適合者であり、
居酒屋のバイトすら全くできなかった
私が、一般企業の正社員として就職し就労していくため(つまり普通に生きていくため)には、もうこれ以外の方法が思い付きませんでした。
なので、
今ヒキコモリのような人たちも。
これをやれば。
ガチでぶっ壊れる(自殺する)までなら、
働ける(と、思います)。
なぜなら私も、学卒してそのままヒキコモリになる人と大差ないスペックと、そして精神的な脆弱さを抱えていたから。
これ↑とか見て頂ければ。
やり方としては。
とにかく
自分の中の気持ちを殺していきます。
文字通り抹消するんですね。
無理矢理就職活動(面接など)をして
どこかに就職し、働いていたら
心がその負荷に耐えられなくなって、
もの凄い悲鳴を上げると思うんですよ。
いやだ! したくない! 逃げ出したい!
っていう。
その心の悲鳴を。
全力で無視。
1つも聞かない。
黙殺。
あとはこの行為を延々と繰り返すだけです。
で、ずっと繰り返していると、
それこそ、気が遠くなるような回数、
そして気が遠くなるような時間で
それを繰り返していると。
心が悲鳴を上げなくなってきます。
なにか、と言われたら、
なにか、というより、
全部、と言った方がいいのかな。
全部が、マヒしてきます。
また、上のと並行してやるんですけど、
そこに新たなる社会的に素晴らしい人格を、
自分に植え付ける。
感情は無視です。
なぜなら、
感情的には、これができないから。
少しでも感情的にできたり、
苦痛に思わなかったり、
受け入れられたりするなら、
そもそもその人は
低スペックでもないし、
社会不適合者でもない。
なので
そこは、感情的にではなく、
ただただ機械的にやる。
おかしい、とか、いやだ、
とかそーいうのは全部無視。
自分の感情を徹底的に押し殺します。
嫌だとか、
もう辞めたいとか。
そういう考えが出てきたら、
とにかく無です。
何も考えないようにする。
何も考えない。
頭を空っぽにする。
実際はできないんだけど、
する、んですね。
していく。
身体の変調も無視。
できるできないじゃなく、
するしかない。
っていう思考でやっていく。
現実。
そうしないと、
食っていけないですから。
(実家暮らしでも、実家に戻れても、ずっと無職なら近い将来ほぼ確実に食えなくなりますよね?)
できない、やらない=餓死
っていう公式があれば。
できる。
できる、っていうか
する以外に選択肢が、ない。
だから、
ぶっ壊れる(自殺する)までは、
できる(ウンヨクヨイショクバニメグリアエレバイキテイケルカモ)。
この私がやったやり方をやれば、
社会不適合者でも、
働いて金を得て、
食っていくことが可能になります。
まず廃人になるけど。
自殺するまでは、食ってはいける。
そう。
食うため。
食って生きるため。
にはこれ以外方法がないし
これができなきゃ死ぬ。
くらいに、
自分を追い詰める。
楽しいこととかないです。
頭の中は「発狂」と「虚無」しかなくなります。
心を殺し始めてからそれ以降は、
「発狂」と「虚無」しかなくなる。
でも、やる。
やらないと、食えないから。
生きていけない、から。
ていう感じで、
自分追い込んでいく。
最初に書いたけど、この方法はやらないでください。まぁ、やるやらない以前に、やるしかないとこまで自分を追い詰めないと(追い詰められないと)実際にはできないんだけどね。
で。
こういうことを何年もやっていると。
仕事を辞めて
ストレスから解き放たれても。
心は死んだままになる。
楽しさを感じられない原因
私が、
日々に楽しみを感じられない原因は、
『空虚感』
と
『不安感』
です。
『空虚感』、というのは、
心が空っぽになってしまっていることを指します。
主に労働を開始した時から今日までに
積み重なったストレスによって、
感情と感性が欠落しているんですね。
何に対してもやる気が起きなくなったり、
何を見ても心が動かされなかったりします。
私の鬱病の症状で最も大きい、
感情鈍麻がこれに当たります。
いわゆる
多大なストレスに対抗するために
感情を殺したが故に、
行き着いた結果です。
次に、『不安感』、というものは、
将来に対する不安です。
今後、自分はどうなってしまうんだろう。
先行きが不安だ、という思いが常にあり、
何かを楽しむことよりも
その不安の方が優先されてしまい、
結果的に何も楽しめない状態に陥ってしまいます。
幸せなはずなのに、平穏なはずなのに?
いや、違う。
そういう話はしていません。
また、
大人になるにつれ、
誰でも感情が希薄になる傾向はありますが
そういう話でもない。
誰かに。
社会に。
圧し潰された心の話を、
私は今回しています。
食うか食えぬか。
生きるか死ぬか。
の話。
生存さえ握られてなきゃ、ぜってー心なんざ殺してねぇ。
貧乏でもギリギリ生きていけますよ、
っていう選択肢がこの社会にあったなら
私は絶対にこの方法を取っていない。
幸せでも平穏でも、
もっといえば、平凡でもない。
私にとって平凡な人生、
普通の人生というものは、
自分の中のあらゆるものすべて差し出しても、ぎりぎり手に入れられないくらいハードルの高いものです。
日本は働かないと生きていけません。
働き続けないと、生きていけない国です。
セーフティネットはあるよ?
でもそれって
「オレもう働くの無理だから
生活保護で生きるわ」
「そっかー、しゃーねーな^-^」
みたいになってないですよね。
生活保護は
働こうとしても働けないほどの理由を抱えた人だけが限定で受けられる制度。
ですよね。
社会常識では。
だから基本的には、
働かなきゃ生きていけない国なんです。
日本は。
平穏な生活でもなく。
平凡な生活でもなく。
最低限度の生活でもなく。
生きていくことすら、不可能。
生きていけない。
食っていけない。
餓死する。
働かないだけで餓え死にする。
っていうのが、
この国のリアルです。
もしこれが違うと言うなら、
仕事に殺されている人の数が0のはず。
0とまではいかなくとも0近い数字のはず。
全然そうじゃないよね。
なぜなら
っていう公式が
常識として国民の中にあるからです。
(この常識に、殺されてるわけです)
だって、そーじゃないなら、
限界まで追い詰められる前に、
辞めちゃえばいいじゃん。
でも辞めたら、生活が、生存が危うくなる(それに関わってくる)から辞められないんですよね。
私も今、普通の路線から外れたり、
1年半も無職をしたり、
傷病手当金などで生活を助けてもらったりしていますが。
これは、ここまで追い詰められなければ、
到底できない行動だった。
安定と社会常識を捨てたから。
今まだこうして、生きてるんですよ。
働かない=死
は私の中にずっとあったし、
今もあるし、
これからもあり続ける。
生活がかかってないなら。
生存がかかってないなら。
だれが心なんて殺すかよ。
心って。
命の次に大事なもんですよ。
でも殺さないと
メシが食えなくなるから
殺した。
心を殺し、心が死ぬとどういうことが起きるか
とにかく、
人生を楽しめなくなります。
何をしていても、
楽しいという感情が沸いてこない。
楽しい以外の、
嬉しい、悲しい、ツライ、といった様々な感情も
とにかく希薄になっていきます。
例えば、現在、私は映画、漫画、
などをゲオで借りてきてそれを観たり読んだりすることを一応の趣味としていますが。
仮にそれをしなくても良いんです。
しなくても、したい、とはおもわない。
別にしなくても、禁断症状とかでない。
ただ少しでも日常に彩りをもたらそうとして
やっているだけであって。
これらのことをしてても
心が動かされない。
感動しない。
ので。
映画、音楽、漫画、読書、ゲーム、
ネットや家族との団らん、散歩、友人との食事、
などなど
一般的に楽しむ、
とされていることをしているのに
楽しめない。
状態にあります。
じゃあどういった状態にあるのかというと、
空虚と不安に常に支配されている。
何をしていても、
空虚と不安が消えない。
この2つを心が健全な方に
解りやすく伝えると、厳密には違うんですが
敢えて想像しやすく伝えると、
まず、空虚は酒に酔った状態で気持ちよさがないもの。
頭がぼうっとして思考に靄のかかった状態。
気持ちよくはないです。
次に不安。
これは何でもいいのですが
例えば、アウトローな人間の車に
後ろから自分の車をドンケツしてしまった時のことを想像してください。
痛めてもいない首を痛めたと言われ、
多額の慰謝料を払えと言われ、
そういった
関わりたくもない人間に脅されている状態です。
すごく嫌な気分ですよね。
1日中、気分が晴れないですよね。
この状態で上記のような
「楽しいこと」をしたとして
楽しめますか?
NOでしょう。
私の不安の正体はもちろん、
社会の普通から外れてしまった不安と
将来的な生存に対する不安なわけですが、
感覚的には似たようなものだと思います。
拭い去れない、って意味で言えばね。
唯一、モノを食っている時は、
不安から心が解放されているんですけど
すごく一時的な解放でしかないわけですし、
また間食は健康にも良くないし、
金もかかります。
それにこれに完全に頼り切るようになってしまったら、悲惨ですからね。
なので、適度。
飽くまで、ものを食べることで心を満たすのは、
適度にしておかなければならない。
以前は楽しめていたものが楽しめなくなる
自分が何が好きで、何に心を動かされていたか。
というのは知っているし、
そういうものはあったんですね。
しかし、それがなくなる。
昔、楽しいと感じたことをしていても、
今は何も感じなくなってしまうんです。
楽しいことがない、となると
色々試してみよう、となりますよね?
試すだけではなく、自ら楽しもうとしてみよう、
ともなりますよね?
全部やった。
その上で、
何も楽しめない。
やはり、
何も楽しめない。
肉だけが生きている。
心が完全に病んだ状態で、無職になるとマジで辛い
いえ、もちろんね。
そのまま我慢して働いているよりはマシですよ。
しかし。
例え辞めても。
心がもう完全に折れちゃってるから。
何をしていても楽しくないし。
楽しくないどころか不安しかない。
私は一日のうちで、
まあまあ色んなことをしています。
しかしこれらの中で
自発的に望んでやっていることは何もないです。
つまりすべてしたくないけど、
している。
したい、っていうものはないんです。
したいことは
なにもしたくないことで、
心のままにいたら、
ずっとベッドの中でうずくまっているでしょう。
でもそれだといけないと思っているから
無理矢理身体に鞭打って身体を動かしています。
しかし、虚空。
いかんせん、虚空。
頭も世界も空っぽなまま
ただただ、時間だけが無為に過ぎていく。
ストレッチをしていても、ウォーキングをしていても、家の掃除をしていても、炊事をしていても、畑仕事をしていても、借りてきた映画を観ていても、音楽を聴いていても、スマホでだらだらとネットサーフィンしていても、そしてこのブログを書いていても、
1秒たりとも逃れられない。
見栄えだけは充実した無職生活?
を送っているように見えて、
中身はがらんどう。
どうしようもないくらいに、
がらんどう。
心が死んだ人が人生を楽しむためには
原因を解決することですね。
心が死んでいるなら、
心を生き返らせること。
将来に不安があるなら
将来の不安を取り除くこと。
これら2つ、
もしくは1つでもクリアすることで、
楽しむことは可能になると私は考えます。
しかし。
それが無理なんだな^-^;
理論上はそうなんですけど。
現実的には、どちらも
達成が非常に困難です。
努力はしてます。
努力ということに関しては。
私は
今までもしてきましたし、今もしていますし、
これからもずっとしていくでしょう。
その努力をし続ける、という前提があっても
達成は非常に困難である。と思う。
私の死んだ魚の目レベルが今コイツくらいだと思う。
はい。
今回はですね。
私が就職活動時代から
一昨年(2016.9)の辞職に至るまでに
行ってきた、
心を殺す、という概念について書きました。
カススペックでしかなかった自分を、
無理矢理社会に適合させるために行った行為ですね。
実際にこの期間、
どのような体験をして(どのような出来事・背景があって)心を殺すに至ったか、というのは、過去日記の方で少しずつ語っていきたいと思っております。
しかし、このブログは、ほんと大衆受けはしねーな^^;
普通の人は、
【働く→心を殺す】、っていう概念自体ないからね。
死体の国
でもさ。
今回の記事のテーマである
生きるために心を殺す、
って
ワダスみてーな
社会不適合者の限定なの?
私は紛れもなく社会不適合者なんですが。。。
そうではなく、
生きるために心を殺している人
って。
私のようなガチ社会不適合者だけではなく、
日本の労働層の半数以上が当てはまるんじゃね?
って思うんですよ(無自覚な死人層(むじかくなしびとそう)も併せたら半数どころじゃないと思う)。
多かれ少なかれ
現代人は
みんな心を殺して生きている。
「普通」の人たちもね。
そんな社会ってさ。
異常じゃね?
死体の国じゃね?
併せてこの記事も楽しもう!